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伊勢の中世 〜伊勢中世史研究会〜  本文へジャンプ
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第9回例会 2007年12月15日(土)

北伊勢における中世城郭の立地とその類型化 伊藤徳也氏

 北勢を領域として中世城郭の現況を調査してきたが、15年をかけてようやくそのほとんどを終了させることができた。今回の報告の中心は、現況図、地籍図を基礎として対象となる200近くの城郭を包括的に見た場合、どのような特徴点が見出されるかを考察することである。北勢の城郭を文献史料と直接的に結びつけることは困難で、また虎口など縄張の特徴から編年化することも容易ではない。そこで、これらをもとにした検討はひとまず保留した上で、全体を異なった視点から眺めることにより何らかのヒントを見出そうとするものである。
 具体的には、北勢の地形的特徴から概ね東流する河川を基準に地域を6分割、つまり員弁川水系、揖斐川水系、朝明川水系、三滝川水系、内部川水系、鈴鹿川水系に分け、城郭の立地上の傾向を探る。その際、中世にまで遡る保証はどこにもないことは承知の上であるが、直近の集落の存在を重視し、両者の位置関係をもとにした類型を行ってみる。その上で全体の傾向を見ると、集落付近の選地が圧倒的で、丘陵端に位置するものが多いと分かる。しかし、各地区ごとの傾向を探ってみると、河川が小規模化するほど集落と比高をもつ丘陵端ではなく、集落と同レベルの丘陵端へとその中心が移っていくことに気づくのである。集落は河川流域の地形的特徴、もしくは制約からそこに立地しており、城郭がもつ集落支配の重要性を考慮すれば、この相対的関係の傾向は偶然とはいいきれない。そこで、北勢の城郭の多くが集落支配のためのものとすれば、その立地は地域の権力的規制によるものではなく、集落の立地条件により大きく規制される存在であったのではないかと想定するのである。
 この点を傍証するために、再び郭構造に着目し類型化を試みる。そして、各地区ごとの傾向を探ってみると、比較的多様な形態をもつことが分かり、これは郭構造・構成に対する地域の規制が顕著に働いていないことの表れではないか。とするならば、郭構成に対する規制がない中で、立地だけに地域の規制が働くと考えることは難しい。城郭の立地には、地形による規制(集落の立地)がその背景に大きく存在するのではないかと考えるのである。但し、集落は遡っても近世初頭にまでしかその存在が把握できないから、現段階ではこれは仮定の域を脱し得ない。中世の状況を探ることが課題である。



中世後期の伊賀地域の方形城館 笠井賢治氏

 三重県では、1976年に全国に先駆け中世城館の悉皆調査が行われ、それを契機に伊賀中世城館調査会による詳細な調査が行われてきた。1980年代には、山本雅氏が中世城館の分布や構造について整理され、伊賀地域の中世城館=方形館と非方形館があり、方形館=在地、非方形館=外部勢力と位置づけ、さらに方形館の規模の分類し、城館の規模の大・中・小=惣国一揆の 惣国奉行・大将・侍 に対応するのではないかという仮説を立てられた。山本氏の一連の成果は、城館研究の萌芽期において、すでに城館と在地構造と関連付けることを試みたものとして高く評価されている。しかし、山本氏の在地の状況は、中世末の惣国一揆に収斂されていて、伊賀国内の個々の地域の分布状況等ついては一部を除き言及されていない。一方、伊賀地域の歴史学研究では、惣国一揆の前提として、久保文武氏により地縁・血縁による重層的なまとまりがあったことが指摘されており、また、稲本紀昭氏により史料の集成作業が行われ、伊賀と近隣勢力の関係性が整理されている。さらに、近年『三重県史 資料編中世2』が刊行され、宮座のエリアを示す良好な史料である4つの神社頭番帳が所収され、地域的まとまりを示すいくつかの史料が明らかになりつつある。
 そこで、こうした研究史を踏まえ、伊賀地域の中の個々の地域の史料や城館の分布や構造の分析を積み重ね、地域のあり方を再検討することを試みたい。具体的事例として、城館跡・文献史料の残存が良好な伊賀市の川東地区、柘植地区、川合地区を取り上げ、伊賀地域の北部において城館跡の分布や規模、在地の状況が異なることを提示したい。
 川東地区では、春日神社の頭番帳にみえる殿原層と単郭方形館居住者の一致する例が多く、突出した城館跡や領主権力の存在が窺えない状況であるのに対し、柘植地区では、福地・日置・北村といった室町幕府からも認識される領主が存在し、比較的規模の大きい城館を形成している。その反面城館分布は川東地区に比して疎らな状況となっている。また、川合地区では、陽夫多神社を紐帯とする宮座の形成が頭番帳から知ることができるが、城館跡のあり方は、柘植地区に近い状況となっている。
 以上から、平地の方形城館が均質に多数分布する伊賀地域のイメージは必ずしも一様でなく、それぞれの地域の状況により異なることを知ることができる。しかし、その粗密の意味や史料から窺える地域的まとまりが、城館の分布や構造にどこまで反映しているのかどうか、など検討しなければならない課題がある。そして何より根本的に、他地域と比して濃密な伊賀地域の城館分布の意味を念頭に置きながら作業を進める必要がある。




第8回例会 2007年11月23日(祝)

1 伊賀市壬生野地区川東の中世城館群
 
 今回は、伊賀の中世城館を紹介するということで、中世城館跡が点在し、かつそれが今もなお屋敷地として機能している典型的な例として壬生野地区の川東を選んだ。
 伊賀市壬生野地区は、伊賀北部を西流する柘植川の支流、滝川により形成された沖積地と低位段丘を合わせた地形となっている。前近代の景観をよく残した農村地帯であるが、名阪国道御代ICから南へ5分程度のところにあり、自動車を使えば案外便利のよい場所である。
 壬生野地区は、春日社領壬生野庄の故地であり、壬生野庄は『中右記』にもみられる荘園で、12世紀前半からその存在が知られている。荘園の範囲は定かではないが、現在の川西・川東を中心とする地域であったと考えられている。時代は下るが川東集落の北端にある春日神社に所蔵されている古文書群には、後述する頭番帳の他に、「壬生野惣庄」から春日神社や敢国神社(伊賀一ノ宮)、大峰山などに出された天正11年の願文がある(『三重県史』中世2所収)。古代末に成立した壬生野庄が中世末には惣庄としてのまとまりをもつようになっていたことが窺える。
 川東の城館群を見学では、春日神社を出発点とし、沢氏館跡⇒阿弥陀寺:大聖寺跡⇒沢氏西館跡⇒五百田館跡⇒大深氏館跡⇒竹島氏館跡⇒沢村氏館跡⇒三根氏館跡⇒丸山城跡⇒壬生野城跡 の順で進めた。これらの城館跡の丸山城跡・壬生野城跡を除く館跡は今も屋敷地として機能しており、城館名を姓とする方がお住まいである。伊賀地域で遺構が確認されている中世城館跡数は約600余りとされているが、川東のように城館が屋敷地として機能し続け、今もなお住み続けられている例が集中している場所は余りないように思う。なお、見学の際には『伊賀の中世城館』所収の伊賀町川東地区の城館配置図を参照した。
 また、竹田氏のご提案で立ち寄った阿弥陀寺(沢氏東館跡から西へ200m)には、鎌倉時代後半と思われる残存高245cmの五輪塔があり、西大寺叡尊塔に極めて近いとされる(伊勢の中世136号参照)阿弥陀寺にはこの五輪塔の他に多数の五輪塔・石仏がある。さらに、その東に隣接して大聖寺跡がある。この寺院跡は、『西大寺末寺帳』に「壬生野 大聖寺」とみえる寺院に比定される。

2 春日神社神事頭番帳と城館跡
 春日神社所蔵の古文書群には、天正11年から寛永年間にかけて神事の頭役と入衆(その年に生まれた新生児、地域によっては長男のみ記される場合がある)を記した『春日神社神事頭番帳』がある(『三重県史』中世2所収)。この頭番帳には、「五百田殿」・「沢村吉蔵殿」など殿原層の名前が記されていて、見学した城館跡に重ね合わせることができる。中世史料に見られる領主層を現在の城館名に当てはめることの危険性は以前から指摘されているが、地域が限定された頭番帳という史料の性格と、城館名が現在の屋敷地の居住者名から付されているという理由から、史料にみえる「五百田殿」・「沢村吉蔵殿」の居地が現在残る「五百田館跡」・「沢村氏館跡」であったであろうことは、それほど誤りのないことではないだろうか。なお。壬生野地区の中世城館跡一覧と、春日神社神事頭番帳(天正〜文禄)を一覧表にしたものふしたので、参考にされたい。(笠井賢治)




第7回例会 2007年11月10日(土)

伊賀の国人 稲本紀昭氏


(1)「頭番帳」の世界

 伊賀にはいくつかの神社で祭礼の頭役を記録した「頭番帳」が残されている。その中のいくつかを分析して、地域結合のあり方を確認して行く。
 春日神社(壬生野)に残された「春日神社文書」では、周辺の割合と狭い範囲で、地奉行や諸侍の存在が確認できる。これらの地侍のうちの半分程度は、その城館が比定できる(城館の比定地については、同時代史料で確認できるものはなく、慎重にならざるを得ないものの)。城館跡には、春日山城、壬生野城を除いて、規模などの差は見出せず、文献史料ともあわせると、比較的フラットな階層間の結合が存在していたことが理解できる。
 伊賀国一宮である敢国神社関連の「木津文書」は、北伊賀の比較的南北に広い範囲から祭礼の頭役が出ていたことが確認できる。また、「兼右卿記」・「兼見卿記」などにも詳細な記録が記載されている。この中の河合郷には、比較的大規模な城館をもつリーダー的な地侍による結合が想定できる。また、やや南の服部郷では、多くの地侍が服部姓を名乗り、一族衆による結合が想定できる。
 このほか、陽夫田神社、北山などでは、苗字を持たない、さらに低い「農民的」階層による結合も確認できる。
 これらをまとめて行くと、一言で「伊賀惣国」といっても、内部の結合には様々な形態のものがあり、単純な構造をなしていたのではないことが確認できる。

(2)外敵の侵入
 伊賀国というと、天正
9年の天正伊賀の乱の打撃のみが大きく取り上げられるのであるが、それ以外の戦乱はどうなのであろうか。
 外的の侵入を考える前に、内部での抗争を見ていく必要があるが、残念ながらその史料は残されていない。ただし近世に起こる山論、水利争いなどは中世にも起こっていたことは間違いなさそうである。
 戦国期の外部からの侵入を挙げて見ると、天文19年の大和の多田・上笠間による名張郡への侵入、天文21年の筒井氏による伊賀稲垣への侵入、永禄3年の松山・松永氏の大和宇陀郡への侵入、元亀2年の箸尾氏による河合・柘植への侵入など、16世紀中葉ごろにはかなりの頻度で国外から伊賀への侵攻があり、内容をみても盆地のかなりの奥まで侵攻を許していたことが確認できる。特に永禄3年には、北畠氏が松永等に対して多くの城を築いており、名張郡を中心に、このときに造られた城が多く存在する可能性がある。
 また、天正伊賀の乱後には、天正11年には筒井氏が伊賀で攻撃を受け、天正12年に羽柴秀吉が伊賀国内の城の破却を命じるなど、依然として伊賀国内に武力が温存されていたことを窺うことができる。
 これらのことから、天正9年以外にも、伊賀国への周囲からの侵攻は頻発していたこと、天正9年以後にも城が残り、武力が温存されていたことは確実であると考えられる。
                                                        (文責 竹田)



第6回例会 2007年10月27日(土)

『都市をつなぐ 中世都市研究13』合評会




第5回例会 2007年6月30日(土)

2006年度三重県中世史・考古学の成果 城郭研究編  石井智大氏


 2006年度も中世城館関係の成果が多く出された。なかでも、中世都市研究会2006三重大会「都市をつなぐ」とそれに連動した『Mie history』vol.17・18の特集は、本年度の中世城館調査研究をめぐる動向に大きな影響を与えたと思われる。
 こうした研究動向の中では、城館単体からの視点のみでなく、城館を中世地域社会全体の枠組みの中へ位置づけていこうとする視点が顕著に見られた。交通、交易、用水支配など、多角的な視点から中世城館と地域社会との有機的な関連性が検討されている。本年度の三重県の中世城館研究においては、城館と地域社会との有機的関連の具体的な解明、そして多岐にわたる中世社会史研究全体の中への中世城館研究の位置づけ・組み込みという点で、大きな前進があったといえるのではなかろうか。
 また、発掘調査成果としては、伊賀市霧生城跡などいくつかの発掘例が蓄積されたほか、調査報告書もいくつか刊行されている。特に、伊賀地域の城館に関する発掘調査成果が多く公表された。桑名市愛宕山城の食物残滓に関わる調査報告なども注目されよう。これらの成果も、今後の三重県における中世城館研究において重要な資料となるものと思われる。


三重県中世史・考古学2006年度の成果〜考古学を中心として〜  石神教親氏

1.発掘調査の成果
 ここでは2006年度の考古学の成果について見ていくこととする。まず、重要な中世集落に関わる報告書が刊行されたことが上げられる。三重県埋蔵文化財センターが国道23号線中勢道路の建設に伴って実施した小津遺跡・舞出北遺跡で、前者では8つ区画された屋敷が確認されており室町時代では5段階の遺構の変遷が想定されている。後者でも、南北の大溝によって区画された東西の区画を、さらに溝によって小区画を設けられている。大会遺跡では、類例が少ない14世紀の集落が確認されている。
 これらの集落遺跡からは、中世墓も多く検出されている点も見逃せない。舞出北遺跡は、区画溝で区切られた西側に多数の土坑墓が見つかっており、西が墓域で東が居住域というような立地であったと見られている。大会遺跡では、集落廃絶後に火葬墓が営まれたことが確認さている。中世墓では、小上野墓ノ谷古墳・遺跡も興味深い調査例で、中世段階で石室内を再利用して火葬が行われていることが分かっている。
 生産遺跡としては、小牧北遺跡で平安時代末期の土師器焼成坑が確認されている他、時代は大きく下って近世後期のダルマ窯3基が西川遺跡の調査で見つかっている。この他の遺跡としては、替田遺跡が中世後期の寺院にまつわる遺物が見つかっており周辺の寺院関係地名などとも合わせて寺院が周辺にあったことが考えられている。
2.研究論文から
(1)「安濃津」論争
  伊藤論文@は、2004年に公にされた尾野論文への反批判として出された論考である。尾野論文は、これまでの伊藤氏が書かれてきた安濃津に関する見解に対する批判である。尾野の論点は主に二つ。
   A.安濃津が明応の地震(明応7年(1498))で本当に廃絶したのか。
   B.安濃津が集散地として、流通の拠点だったという評価は正しいのか。
 これに対して伊藤は、従来からの説をあらため強調し、安濃津の重要性を説いている。今後の史資料の蓄積や研究の進展によって、“過大評価”でも“過小評価”でもない「安濃津」を明らかにしていく必要があると思われる。また、伊勢湾西岸部の港津全体の状況を明らかにし、その中で安濃津がいかなる立場にあったのか検討していくべきではないだろうか。
(2)その他の論文
  濱辺は中世後期における京都系土師器皿を分析し、北勢と南勢での分布状況の違いを政治状況の違いが背景にあると結論づけている。笠井の2論考は、伊賀地域の井戸と中世前期の土坑墓に関して集成したものである。竹田・酒井の論考は、遺跡を単体としてではなく周辺遺跡などとともに、それぞれの地域における総体としての遺跡について論じている。伊藤は、安濃津遺跡群の報告書未掲載資料を再検討し大和産羽釜や京都系土師器皿を確認、報告されていた砥石が京都鳴滝産である可能性を指摘し、畿内との流通などでの繋がりの深さを更めて考察している。新名は製塩遺跡であることが確認されている立神高岡遺跡を始めとする南伊勢の中世の製塩について「太田家文書」などの諸資料とも合わせて分析している。




第4回例会 2007年4月21日(土)


中世城郭跡の調査  小玉道明氏


(1)大型開発と遺跡の保護
 昭和40年代後半から、各種の開発事業が進展し、中世城館を含む遺跡の破壊が目前に迫ってきた。そこで遺跡保護の第一歩としてもっとも重要だと考えたのは、遺跡の現況と場所を明らかにする分布調査であった。そのため、文化庁の補助事業として、県内の中世城館の悉皆調査を行うことになった。
(2)昭和40年代後半〜50年代初頭の中世城館調査の現状
 しかしながら、実際に中世城館調査を行うとなると、いくつかの問題点が明らかになってきた。そのなかの主なものは @参考とする研究の少なさ A遺跡としての中世城館に対する関心の低さ B体制の不備 であった。
@については、県単位の悉皆調査としては埼玉県が城館一覧表を作っていたが、縄張り図を掲載したものではなく、個人研究としては小室栄一氏などの測量図、県内では前千雄氏の『奥熊野の城跡』などがあるのみであった。用語も難解かつ不統一であった。
Aについては、江戸時代の軍記や地誌からの城に関する由緒のみに関心が置かれ、城の遺構への関心はほとんどなかった。
B当時の三重県教育委員会の文化財担当は数人しかおらず、そのメンバーで県内全域の調査は無理であり、三重大学、学校教員やアマチュア研究者の協力に頼った。
(3)調査報告『三重の中世城館』 1976
 1976年には、悉皆調査の報告書『三重の中世城館』を完成することができた。多くの縄張り図を掲載した中世城館の悉皆調査報告として、注目を集めることになった。
 調査を通じて重視したことは、縄張り図の提示など学術的なことよりも、むしろ城跡保存のための現状把握であった。城跡は遺跡としては比較的新しい時代のもので、研究はあまりすすんでおらず、遺構への関心も低かった。また、集落に近いという立地条件から、住宅開発や土取りが行われる可能性が高く、大規模城館で開発が行われるということになると、当時の体制では対応することはほぼ無理であった。報告書の完成と公開により、その場所を避けた計画がなされることを願っていた。
 前述の問題点のすべてが解決されたわけではないが、伊賀では福井健二氏をリーダーとする伊賀中世城館調査会が誕生し、その後も城館の測量調査を継続することになった。         (まとめ 竹田憲治)




第3回例会 2007年3月24日(日)

全国城郭研究者セミナーの理念と20年の歩み  八巻孝夫氏


1)セミナー以前10年間の城郭研究
城郭研究には明治以来の流れがあるが、1970年代半ばから1980年代半ばである。この時期には、伊礼正雄による『関東合戦記』(現在につながる中世城郭研究の初期の著作)が出版され、行政による発掘調査(山梨県勝沼氏館跡)、同じく行政による悉皆調査(『三重の中世城館』)が行われた。このような流れは、現在の城郭研究の基底にもなっている。
2)城郭に関する学際的研究の高まり
 このような中で、城館の緊急発掘調査・整備のための発掘調査が多くなってきた考古学、武士団や在地領主の研究が盛んであった文献史学、これまで独自の方法論をもちつつ、他分野との接点を求めていた縄張研究が三位一体となった研究の場が暗黙の内に求められていた。その中で、縄張研究者が中心になり、村田修三・石井進らの文献史学からの応援もあり、1984年に「全国城郭研究者セミナー」が行われることになった。
3)セミナーの実行・理念
どのようなセミナーをめざすかという答えはその名にある
 全国=列島内のすべての城を対象に
 城郭=中世に限らず全ての城を対象に
 研究者=個々の研究「者」を重視した
 ※詳細については中世城郭研究会のHPの「セミナーの理念」を参照。
4)これからの展望
 セミナー開催は23回になり、城郭研究の市民権は地代とともに高まった。全国各地でそれぞれの城のシンポジウムや時代をしぼったシンポジウムが多く開かれている。セミナーはそれらとは一線を画し、あくまでも全国・全時代をとおしたものとしていきたい。
                                                (まとめ 竹田憲治)




第2回例会 2007年1月28日(日)
 
三重県の中世城館研究の成果と課題  竹田憲治氏

研究史としてまず、『三重の中世城館』があげられる。
以降の研究成果として、@城館研究、A考古学(発掘調査)B文献史学に大別できる。
現状では、この3点がうまくリンクしているとは言い難い。
県内を5地域に分けてみてみると、上記3点の研究成果のバランスは決してよくはない。
比較的資料が多いのは、桑名〜四日市地域、伊賀地域の二つの地域と、一志・松阪地域の小倭地域がある。そして、方形城館が多い地域でもある。
それらの資料を基にして、今後の研究課題として考えられるのは、方形城館の発生、方形城館分布地域とそれ以外の地域との関わり、一揆体制や寺社勢力との関わり、そして、廃絶や再利用といった問題などが挙げられる。




第1回例会  2006年11月23日(木・祝日)

1 城郭研究者セミナーの開催方針・テーマについて
2 中世都市研究会討論会のテープ起しについて
3 その他