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伊勢の中世 〜伊勢中世史研究会〜 
中世都市研究会2006の記録

    中世都市研究会2006三重大会

今回の研究会では、伊勢国を中心に、湊津の存在と陸路を重視し、列島をつなぐ結節点としての地域的特徴を追求します。また、伊勢神宮をはじめとする宗教勢力の都市に対する地域的・経済的影響を考え、西国の京都・東国の鎌倉を相対化する視点を提示します。


主 催 : 中世都市研究会2006三重大会実行委員会

共 催 : 津市教育委員会

後 援 : 三重県埋蔵文化財センター

日 程 : 2006年9月2・3日(土・日)

参加費 : 無料 ※資料代は別途2,000円です。

大会日程

1日目:9月2日(土) 見学会

集合場所:斎宮歴史博物館 三重県多気郡明和町竹川503番地 TEL0596(52)7031

@       11001200 三重県埋蔵文化財展「北畠氏とその時代」の見学とその解説

解説 小林秀・竹田憲治・伊藤裕偉 

A 12451630 見学会(斎宮歴史博物館からバスにより3コースに向かう)

 Aコース 「中世都市山田の面影」〜伊勢市山田・河崎〜

解説 岡野友彦・千枝大志

Bコース 「国司の城下」〜多気北畠氏関連遺跡群〜

解説 小林俊之・石淵誠人

Cコース 「湊津・寺内と伊勢街道」〜安濃津・一身田〜

解説 藤田達生・太田光俊

参加費2,000円程度(バス代実費)

B     1830〜 懇親会 プラザ洞津 津市新町1628 TEL059(227)3291

会費6,000

2日目:9月3日() 研究報告・シンポジウム

会場:津リージョンプラザ 津市西丸之内231  TEL059(229)3300

830900 受付

900905 挨拶・趣旨説明 藤田達生大会実行委員長

9051000 基調報告・総論:「伊勢中世都市の歴史的位置付け」

岡野友彦(皇學館大学)

                「港湾都市安濃津から城下町・津へ」

藤田達生(三重大学)

10001040 研究報告A:「中世伊勢国における仏教の展開と都市」

山田雄司(三重大学)

休 憩

10501130 研究報告B:「“都市”の相対性、あるいはその“うち”と“そと”」

    伊藤裕偉(三重県教育委員会)

11301210 研究報告C:「中近世移行期伊勢山田の近地域間構造」

千枝大志(本居宣長記念館)

昼食・図書交換会

13001340 研究報告D:「中世都市山田の形成とその特質」

小林 秀(三重県史編纂G

13401420 研究報告E:「市場地名に関する試論」

笠井賢治(伊賀市史編纂室)

14201500 研究報告F:「伊勢国の中世都市と城館」

竹田憲治(三重県埋蔵文化財センター)

休憩・図書交換会

15201630 討論 [司会]播磨良紀(四日市大学)・亀山隆(亀山市教育委員会)

  16301640 閉会挨拶、次回開催地の案内

 



 中世都市研究会2006三重大会の舞台裏(『伊勢の中世』第132号より)
 去る9月2日(土)・3日(日)の2日間、中世都市研究会2006三重大会が開催された。伊勢中世史研究会が積極的に支援した最初の全国研究集会であるとともに、三重県の中世史研究者をほぼ結集して実施した大会であった。終わってみれば、参加者は1日目約120名(懇親会96名;スタッフ込み)、2日目約250名、資料集は完売という予想外の盛況で、事務局一同ほっとしているところである。しかし、ここに至るまでにはいくつかの紆余曲折があった。ここではこの場を借りて、事務局の奮闘(悪戦苦闘?)ぶりの一端を紹介したい。
【ふところが・・・】 大会開催にあたっては「中世都市研究会2006三重大会実行委員会」を組織し、津市教育委員会の共催、三重県埋蔵文化財センターの後援を得るかたちで実施した。「さぁ、後は財源」と、余り深刻に考えもせず、いくつかの補助金・交付金を申請した。「ひとつぐらいは当たるかも」という読みは甘く、ことごとく落選した。当然ながら顔面蒼白状態で、途方に暮れかけていた。結局、藤田達生氏(三重大学教授)の科学研究費の一部を援助いただくとともに、伊勢中世史研究会からも負担をいただき、凌ぎきることができたが、“かね”を手に入れるには、(巧妙な)書類を揃え、かつ、熱意と気合いを足さないとはじまらないことを痛感した。
【例会と飲み会】 実行委員会は2004年2月に結成した。それ以後、月一回の例会を重ねてきた。例会は研究報告と事務連絡がメイン。午後1時30分からはじまって、いつもながら時間が超過気味である。そして、「その続きは夜の部で」という感じになる。続く会場は、津駅ビル下の居酒屋。しかし、この会場で例会の続きをしたという記憶が、実はほとんど無い。そういえば、夕刻のみ参加という御仁も何人かいた(それでも大会の話は少なかったような・・・)。会の続きはしなくとも、大切な何かを作り上げる場なのかも知れない。昨今「飲み会が減った」という声を全国各地でよく聞く。しかし、飲み会の持つ得体の知れない偉大さは、永遠に不滅ではないかと思う。
【事務運営】 今回は、大会の成功もさることながら、他にも何か後に残る成果を全体で挙げようという動きになった。それが『Miehistory』17・18号(特集;三重の中世1・2)の刊行である。これがあったため、大会報告担当ではない関係者も“ひとごと”にできない状況に置かれた。関係者は、この執筆と併行して事務を行った。大会案内の作成と送付、会場・懇親会・バスなどの手配、看板作成、参加者・弁当などの集約、資料集の作成・編集、見学会の諸準備と資料作り、予算とその配分および集約・・・・他にも一見細かく見えながらも実は不可欠という内容の仕事がたくさんあった。ここで挙げてみても、よくぞ皆さん貫徹したことだと思う。手前味噌ながら、「みなさんすごかった」・・・・。
【さらなる刊行物】 今回の大会にあわせて刊行したのが、先に挙げた『Miehistory』17・18の2冊である。もちろん大会資料集もそのひとつだが、『伊勢の中世』2と『中世史・考古学情報2005』もこれに合わせて作成された。様々な書籍の編集を同時並行で進めていたので、その担当者にはかなりの重労働であったと思う。ほんまにおつかれさんでした。
【北畠氏とその時代展】 中都研三重に関する刊行物が、実はもう1冊ある。三重県埋蔵文化財展『北畠氏とその時代』図録である。これはもちろん三重県埋蔵文化財センターの業務として刊行されたものであるが、多気北畠氏城館跡の国指定史跡範囲拡大と中世都市研究会三重大会の開催が重なったことをひとつの契機として実施された展示であった。また、中都研三重実行委員会がこの展示の後援にまわったこともあり、切っても切れない関係となった。なお、8月5日から9月18日まで開催されたこの展示会は、終わってみれば約4,500名の観覧者、図録もほぼ完売と盛況であった。
【見学会】 今大会の目玉としたかったのが一日目の見学会で、この充実をかなり意識した。コースは、伊勢山田と多気はすぐに決定し、一身田・安濃津は後に加わった。それぞれ例会で下見をしていたので、コースはすぐに決まるかと思った。が、そうは問屋が卸さなかった。すんなり決まったのは多気のみで、伊勢山田と安濃津・一身田は8月末まで“すったもんだ”した。見てほしい、見せたいポイントを最大限入れつつ無理のないコース設定をして、限りある時間内に収める・・・・こんなのすんなり決まるわけがない。これに各人各様の思惑が加味される。簡単にいくはずがない。直前までもめたが、どうにか決着が着いた。真摯な意見を言い合ったことは、結果的によかったと思う。実際に行かれた方が満足したかどうかは別であるが・・・(安濃津と山田の案内人は「伝説」を作ったらしい)。
【大会報告】 一日目を全日見学会としたため、二日目の報告も充実を狙った。しかし、やはり一日で8本の報告は日程的にきつかった。報告内容は当然として、さらに各人時間厳守が至上命題であった。報告者全員がタイムキーパーと化していたような気がする。時間オーバー必至といわれていた報告者が見事時間内に収めた時には、舞台裏で「うぉ〜っ!」と歓声が上がった。
 一方、内容に関しては、個人的には「全国レベルに太刀打ちできるのか・・・」という不安が、8月半ばまでつきまとっていた。評価は参加者各位のご判断に委ねるよりほかないが、コメンテーターの市村高男氏が言われたように、成果も課題も多かったというのが正直なところである。
【今後にむけて】 いずれにしても、この大会に向けて月一回の例会を重ねてきたことが、大きな財産になったことは確かだと思う。それにしてもよく続いた。今後も、気兼ねなく、しかし真剣な議論のできる場があり続けることを願いたい。中世都市研究会の開催は、いろんな意味で収穫が大きかったと思う。 (伊 藤 裕 偉)





2006年10月1日(日) 第30回例会

 大会の実施報告、会計報告および監査報告
 大会の反省点などのまとめ
 中都研2006三重大会実行委員会の今後について




2006年9月10日(日) 第29回例会

岡野友彦「北畠親房はなぜ伊勢を選んだか」




2006年8月20日(土) 第28回例会

 大会報告のすり合わせ
 大会関係事務の打ち合わせ




2006年
7月29日(土) 第27回例会


 大会報告のすり合わせ
 大会関係事務の打ち合わせ




2006年6月17日(土) 第26回例会

 伊勢中世史研究会より
 大会報告のすりあわせ
 大会関連諸事務について




2006年5月13日(土) 第25回例会 

1 多気見学コースの検討(現地検討会)
小林俊之さん(後半に石淵さん合流)の案内により、北畠氏館跡・六田館跡・六田地区、松月院跡・土井沖地区の見学。コースは、つぎの概略つぎのようになった。なお、雨天でも基本的には同コースを歩くこととした。なお、道の駅着に余裕があれば、松月院跡にも立ち寄ることとした。
12:50      14:20    15:00    15:15    15:30         15:45
斎宮→バス→北畠神社→六田館跡→六田地区→町屋地区(街道)→土井沖地区
        16:00  17:30
(道の駅)→(バス)→津新町駅  
 
2 大会開催に関する諸事務
・     案内状、会場、バス、資料集などに関する打ち合わせ。














2006年4月15日(土) 第24回例会
 
1 大会報告のすり合わせ
・     6月に大会報告者の作成資料検討を含めた打ち合わせを実施することとなった。
2 安濃津・一身田見学コースの検討
・     斎宮発12:50→安濃津(閻魔堂付近)→上津部田城→一身田寺内町(16:45まで)→津駅(17:10頃)という行程とした。
3 大会開催に関する諸事務
・     バス、懇親会、会場、大会資料、開催通知などに関する打ち合わせ。
・     『北畠氏とその時代』(第25回三重県埋蔵文化財展)への協力について。



2006年3月25日(日) 第23回例会


安濃津・一身田見学コースの検討

 この例会では、大会一日目見学コースのひとつである安濃津一身田コースの現地検討会を行った。
 安濃津では、津市柳山津興地内から、焔魔堂・市杵嶋姫神社を経て藤枝町を通る旧参宮街道の八幡神宮参道前までを歩いた。近代の参宮街道沿線の風情はかなり失われており、一部にその面影が残るに過ぎない。地形は、かつての潟湖部分の窪地がわずかに確認できるが、かなり埋め立てが進行している。行程として、八幡神社(結城神社)から焔魔堂までの間を歩くかどうかを検討する必要がある。
 一身田見学コースでは、専修寺境内から一御田神社を経て寺内町一帯を歩いた。町並みの風情は残されているが、環濠をはじめ、やはり改変が顕著なところも多い。寺内町南部の一帯を歩けば、町の状況は比較的知ることができる。
 行程としては、安濃津から一身田を見ることで、町並みの違いは実感できるものと思われる。また、一身田の位置を確認するため、上津部田城跡に登るという案も検討するに値しよう。










2006年2月19日(日) 第22回例会

太田光俊「一身田を中心とした中近世移行期高田派門徒団の構造と展開へむけて」


一身田巡検と事前報告について

 「一身田を中心とした中近世移行期期高田派門徒団の構造と展開へむけて」という報告(060215)と一身田巡検の案内(040311)を行ったが、内容を再構成し補足すると以下のT〜Vとなる。

T一身田寺内と専修寺教団
 一身田寺内は戦国期からその端緒が認められる集落である。しかしながら江戸期藤堂藩によって寺内は拡幅されており、それ以前の姿は史料も乏しく復元することは非常に難しい。従来、寺内の景観を考察する手がかりとして今まで使用されてきたのは、1地割りをめぐる歴史地理的考察、2『言継卿記』の記述、3専修寺の親鸞信仰の中心たる御影堂建設時、その向きをめぐって前門主、門主、藤堂藩主のあいだでおこなわれた交渉が記された往復書状、4一御田神社の位置、であった。これらをつかい、史料的制約の大きいなか平松令三氏によって多種多様なアプローチが、試みられてきたのである。
 今回は寺内に存在した寺院名を明らかにし、初期の一身田寺内町を考察する手がかりを追加したいと考えるのである。使用する史料は、すでに平松令三氏によって紹介されている、元和9年(1623)〜寛文元年(1661)の出家者、専修寺内の位階の昇進を記した専修寺出家衆帳である。この出家衆帳の寺号と現存寺院の寺号、寺の位置をそれぞれ考証し確定させた。このデータから、万治元年(1658)以前に一身田寺内町に存在したことが確認できる寺は、清光寺・興林坊・玉保院・迎接寺・慈智院・常照院・蓮蔵院・智慧光院、寺号院号をもたない坊主は善貞・養順・玄覚・玄誓(親子と考えられるものは除いた)であった。この内、慈智院は戦国期の古記録(『言継卿記』)に登場する。これらは、関東からの移転伝承をもつ寺院(院家格)、一身田周辺の寺院、河曲郡からの移転寺院によって構成されている。『言継卿記』には他に厚源寺や長岡石見、松尾若狭守、松尾宗右衛門、神部民部、松尾与二郎、長岡新三郎、神六、小者などの寺侍層が登場する。つまり、これらが史料上から浮かび上がる限りの、藤堂藩による拡大以前の一身田寺内の構成要素である。次に、寺内以外に存在する末寺が参集する拠点としての本山像を、この出家衆帳から明らかにした。この時期の高田本山に結集した門末は、全国的にみると、伊賀国1(以下数字は出家衆帳への登場回数、重複も含む)、伊勢国231、志摩国1、越前国31、近江国3、三河国5、山城国4、駿河国2、尾張国22、美濃国2、武蔵国6、陸奥国5という分布となり、伊勢中心の教団であることが理解される。また、もともと本山が関東にあったこともあり、尾張以北にも末寺が分布するが、山間部には末寺は存在せず太平洋岸にあることが特筆されよう。伊勢国内(出家衆帳への地域別登場回数、同一人物の重複あり)については、○不明1、○安濃郡32(津20、村主3、家所2、河辺1、岩田〔弓之町〕1、古川1、戸島1、清水1、太田1、萩野1)、○一志郡27(矢野8、雲出3、木造2、小山2、小森2、一志小津2、松崎2、森須川2、甚目1、星合1、藤方1、肥留1)、○奄芸郡66(御寺内24、白子7、黒田5、長法寺4、稲生3、三宅2、大古曽2、中野2、徳田2、白塚2、磯山1、稲生塩屋1、御薗1、山室1、小川1、上津部田1、上野1、川北1、○大部田1、中別保1、田端カ1、平野1、豊野1)、○河曲郡20(北長太4、北長太?1、玉垣4、岸岡2、高岡1、三日市4、若松2、池田2)、○桑名郡3(桑名3)、○三重郡40(楠8、浜田7、塩浜4、西坂部4、西日野2、赤堀2、川尻2、日永2、水沢2、生桑2、采女1、山本1、小松?1、小倉1、北小山田1)、○朝明郡9(東富田5、茂福〔富田〕2、富田一色1、小牧?1)、○度会郡1(田丸1、)、飯高郡14(松坂9、駅部田3、丹生2)、○飯野郡1(朝田?1)、○鈴鹿郡17(関3、亀山3、峯川崎2、高宮1、国府1、小岐須1、庄野?1、昼生1、長沢1、野村1、落針1、和田1)という分布となった。つまり、四日市から松阪にかけての海側の地域を中心とした教団であったことが理解できる。『お湯殿上日記』に専修寺による定期的な朝廷への鯨献上の記事が見られるが、これを海岸部への教線の伸張と合わせて考えると面白いかもしれない。また、現在存在する高田派の寺院はこれよりも多いため、ここに記した寺々さらにその下に末寺を持っていたとも考えられる。なお、この史料からは、戦国期ばらばらだった高田門徒が徐々に一身田を中心にまとまっていく姿も確認できる。近世初期、一身田の本山化は進行中だった。これらの寺院が、本山に結集していったわけであるが、その結集の軸となったものを、同じ出家衆帳から明らかにしたい。親鸞以来の歴代の命日の前後三日間にどれだけの坊主が出家したかを出家衆帳からと以下のようになった(括弧内は三日前後に出家した件数)。第1世親鸞11月28日(27)、第2世真仏3月8日(2)、第3世顕智7月4日(0)、第4世定専7月11日(1)、第5世専空12月18日(3)、第6世空仏4月14日(1)、第7世順正6月16日(3)、第8世定順1月28日(2)、第9世定顕5月24日(1)、第10世真恵10月22日(12)、第11世応真5月25日(1)、第12世尭恵1月21日(1)、第13世堯真9月20日(14)、第14世堯秀12月16日(在世)、番外真智7月4日(0)、第15世堯朝8月22日(4)。ここからは、開山親鸞、中興真慧、前住の忌日重視がうかがえる。従来言われていた、親鸞軽視、真仏重視は、近世初期段階の儀式上は見いだせない。つまり、信仰対象や時日は親鸞、真慧の忌日を軸として、地域的には中勢を中心とした太平洋岸と北陸に分布する末寺を軸とした、教団構成員が結集する寺内として初期一身田寺内が存在した。また、拡張以前以後の寺院数は余り変わらないこと、一身田の本山化が進行中であったことから、拡張前の寺内町はかなり窮屈なものであったと考えられるのである。

U一身田寺内の形成過程と堂舎の方向の一仮説
 櫻井敏雄『浄土真宗寺院の建築史的研究』(法政大学出版会、一九九七)掲載の史料「明日香家文書」「窪田御山御再興記」と、『真宗史料集成』四、同朋舎、一九八二所収の「高田ノ上人代々ノ聞書」「専修寺文書」「四日市正泉寺文書」、各種報告書所収の一御田神社の棟札、慈智院の堂舎の方向と建立年代、『宗国史』や『公室年譜略』(上野古文軒刊行会、二〇〇二)所収の諸史料を配列し一身田寺内の核となる御影堂の位置の変遷、寺内の拡幅に関する仮説を提示してみた。『公室年譜略』からは境内を横切る窪田村と一身田村の境目とは別に、年貢のかかる土地と年貢がかからない土地の境目が一身田村内の拡張前の境内地にあったことがわかるが、この境目は文禄三年の太閤検地時に出来たと考えられるため、文禄以前の境内地は藤堂藩が拡幅する直前の境内地よりも小さかったことがわかる。その結果、御影堂は現境内の北東部分に建っていたと考えられることを示した。また、すでに十二月の例会に於いて軽く報告した如く寺内の高茶屋移転計画があったことを示した。その後、藤堂藩の久居藩設立と合わせて考えるべきであるという藤田先生の指摘、高茶屋に移転し街道を意識したならば御影堂は東面することとなるだろうことと、一身田の御影堂を東面にという主張は密接に関連しているのではなかろうかという別の勉強会における指摘、参宮客の全面取り込みは南へ行けば行くほど可能となるだろうから高茶屋移転の話が出たのではないかという私なりの考えが出てきている。

V一身田寺内巡検にあたっての小ネタ
 他に巡検時に説明するべき小ネタとして、高田羽書(一身田羽書き)なるものの存在、近世の芝居小屋、真宗における神祇崇拝についての代表的事例としての一身田、神明社と一身田御厨と上分田という今に残る字名という事項が挙げられる。

大会報告内容の検討(岡野・藤田)





2006年1月15日(日) 第21回例会

概要
a 大会テーマの再検討
大会テーマを「都市と聖域」という仮題としていたが、全体報告との整合性が難しいことや、「聖域」のイメージとして山田が強調されることから、再度検討してはどうかという意見が多かった。今回のすり合わせによっても、テーマの再検討が必要と考えられた。
今回の大会は、都市を含めた場で見られる多彩な様相を見ることや、都市を地域のなかで相対化すること、あるいは在所同士や他地域とのつながりを考えること、そして時代を通じた都市の変遷を見ることが中心となる。そこで、全体で検討したところ、「都市をつなぐ」という案が出され、全員の意見が一致した。このため、「都市をつなぐ」を大会テーマとして運営していくこととなった。
b 各報告内容の検討(岡野・山田・伊藤・千枝・笠井・竹田)
各個別報告の内容について、全体のすり合わせを行った。今回は岡野・山田・伊藤・千枝・笠井・竹田報告の内容の検討を行った。
c 見学会コースの検討
山田見学会を中心に、一身田見学会の検討も少し行った。一身田見学会は、安濃津→一身田コースとする方向で検討することとなった。




2005年12月10日(日) 第20回例会


岡野友彦「「考訂度会系図」に見る中世前期の伊勢

 今日、「中世都市」と呼ばれる概念の中には、京都・奈良・鎌倉などといった荘園領主の集住する「権門都市」と、かつて城下町・港町・門前町などと呼ばれてきた「都市的な場」(町場)の二側面が含まれており、この両者は、これまで得てして混乱して用いられたり、あるいはその一方のみを論じることで満足されてきたように思う。しかるに近年、荘園制の年貢収納システムと都鄙間経済との関係を考察する視座が提唱され、この両者を明確に整理しつつ結びつける研究環境が整いつつある。
 本報告は、これまで得てして中世後期の門前町(鳥居前町)として論じられることの多かった山田の都市構造を、中世前期に遡り、巨大な荘園領主伊勢外宮の「権門都市」として捉え直してみた一つの試みである。但し、中世前期における山田の都市構造を伺い知ることのできる史料は極めて限られており、本報告では、あえて幕末に編纂された「考訂度会系図」を、そのための有効な史料として活用してみた。
 「考訂度会系図」は、延享3年から安政6年までの112年間を費やして編纂された、外宮祠官度会氏の最も詳細かつ網羅的な系図であり、当時知られる現存の古文書・古記録にあたり校勘を加えたものであることが夙に指摘されている。そこで本報告では、この系図に記された度会姓神主家たちの苗字を年代順に整理することで、彼らが度会郡のどの辺りに拠点を形成していたのかを考察した。その結果、10世紀から11世紀前半まで、櫛田川以東の広範囲に分布する在地領主的存在であった度会氏が、11世紀後半以降、東国の御厨(寄進地系荘園)形成の過程で、外宮周辺に集住する都市領主(権門領主)的存在へと、その性格を変質させていることを論じ、これこそが、山田が一般的な「門前町」とは異なる都市構造(散漫なほど広域)を有する歴史的前提なのではないかと考えた。


石神教親「桑名郡・員弁郡の中世寺社―『作善日記』を中心として―」

 『作善日記』は四日市市南富田町に所在する善教寺(浄土真宗高田派)が所蔵の阿弥陀如来立像の胎内からみつかった文書である。これを記したのが藤原実重という人物であり、元仁2年(1225)から仁治2年(1241)にかけて行なった作善の内容が列記されている。
 実重は、伊勢や熊野へも度々参詣するなどかなりの財力を有していたと考えられている。居住地は、現在の員弁郡東員町付近とおもわれ、員弁郡内の寺社が数多く登場する。主なものをあげれば、星川(安渡寺、※寺社名は現在の名称)、志知(平群神社)、中上(久米神社)、阿下喜(地高寺)、鳴谷(聖宝寺)などである。桑名郡内では多度(多度神社)が唯一登場する。
 多度も含めたこれらの寺社の周辺には、経塚や中世墓が認められる個所が多くあり、『作善日記』に登場する寺社が地域の信仰の中心であったことがわかる。特に多度は、狭隘な谷状の地形の中で多度神社と神宮寺を中心として、両側の斜面に中世墓が広がり、多度神社の背後の丘陵頂部に経塚が造営された。奈良時代に神宮寺が造営され、伊勢神宮を除いて伊勢国内でもっとも高い神階をもっていた多度神社は、人々の信仰を集めていたことは確かで、中世前期の段階で都市的な要素を持ち始めていたのではないかと推定した。
 また、『作善日記』に記載のある場所以外にも、地名や考古資料から寺院があったことがわかる。いなべ市藤原町には東禅寺という地名が残り、周辺からは経塚と中世墓に伴う遺物が出土している。この他、経塚と中世墓が一緒に見つかっている所では、いなべ市大安町の経塚中世墓群がある。『作善日記』には桑名についての記述がまったくない。しかし、伊勢や熊野への参詣や多くの品物を奉納するにあたっては船が使われたと考えられており、おそらくその出発港は桑名であったろう。桑名のまわりには、北別所・西別所・蓮花寺といった地名が今でも残る。「別所」という地名そのものが中世前期の僧の活動を示すものであり、蓮花寺は『沙石集』を記した無住が一時期、住していた寺でもある。桑名はこのころからすでに港町として機能していたと思われ、その周辺に寺院が点在していたと考えられる。
 寺社・経塚・中世墓があるからといって安易にそこが都市的な場であったと断定することは慎まなければならないが、資料が乏しい中にあってこれらは地域の歴史を論じるための有用な資料である。今後、他地域との比較などによってさらに精査していく必要があると考えている。また、今回は取り上げることができなかった荘園や御厨との関係も十分検討する必要があると考えている。今後の課題としたい。
 
 


2005年11月6日(日) 第19回例会

大会報告の内容の検討〜その1〜

 第19回例会は、三重大会で報告予定の内容を検討する会とした。報告予定者による概要の提示と、全体のすり合わせを目的として実施したものである。
 内容は、以下のとおりである(タイトルはいずれも仮題)。
・    総論@ 岡野友彦「伊勢中世都市の歴史的位置づけ」
・    総論A 藤田達生「伊賀国に見る守護支配と惣国一揆」
・    報告A 山田雄司「宗教者の見た都市」
・    報告B 伊藤裕偉「屋号分析から「中世都市」の実態を探る」
・    報告C 千枝大志「中近世移行期伊勢神宮周辺地域における地域間交流形態」
・    報告D 小林 秀「中世都市山田の形成とその特質」
・    報告E 笠井賢治「「市場」地名に関する試論」
・    報告F 竹田憲治「中世都市と城郭」
 以下、いくつかの課題を触れておく。
<大会テーマ「(仮)都市と聖域」に関して>
 今回の大会では、中世都市と聖域との関係をひとつの課題として提示しようとしている。上記報告のうち、直接聖域との関係に関わるのは総論@、報告A・C・D・Fで、他の報告は、聖域の対極にある「俗」の部分に照準を当てたものとなっている。聖域を語る際には「俗」の部分の議論が必要となるため、両者は表裏の関係ともいえるが、全体テーマとの関係を大会までにしっかり吟味しておく必要がある。
また、大会テーマとしては、もう少し「俗」の部分も強調したものに変更することも考えてよいのかも知れない。
<報告内容の視座に関して>
 三重大会であるため、三重県の持つ各種の特質を改めて提示する視座として、各々の報告内容は極めて興味深いものになっていると考えられ、今後の肉付けが非常に楽しみである。しかし、三重県内で完結する議論となってしまう恐れも含んでいるように思われる。素材を三重県内の資料類としながらも、そこからいかに大局的な議論が可能な視座を提示できるかを、それぞれで考えていく必要があろう。
<その他>
・大会1日目の見学会には、一身田コースが新たに追加されることとなった。これについては、津市教委と藤田委員長・太田委員補佐との間で調整が図られることになっている。
・本大会報告の大枠でのすり合わせは、4月までの間に3回ほど行うこととしている。
                                     (文責・伊藤裕偉)



2005年10月23日(日) 第18回例会 伊勢地域(山田・河崎)見学 
                                千枝 大志

  今回は、中世都市研究会としての初の伊勢地域見学会であり、また、来年の
中世都市研究会三重大会での見学会の下見という意味合いを兼ねたものであっ
た。主要コースは以下の通りである。

 ◇主要見学ルート
近鉄伊勢市駅(集合)⇒山田三方会所跡⇒法住院⇒村山武則砦跡⇒旦過山墓地⇒山田上之郷(中島・辻久留・二俣・浦口)地区(北出雲邸跡・北新左衛門邸跡)⇒筋向橋⇒丸岡大夫邸⇒八日市場市場地区(小西万金丹薬舗・上座〔魚座〕地跡・福島みさき大夫邸跡)⇒龍大夫邸跡⇒須原大社⇒宮後地区(月夜見宮・神路通・東大夫邸・糀屋家)⇒岩渕地区(上部越中守邸跡・三日市大夫次郎邸跡・出口延佳邸跡)⇒岡本地区(箕曲松原社・簀の子橋・小田橋)⇒河崎(河崎本通りの町並み・中橋・環濠跡・河崎商人館)⇒懇親会(河崎2丁目炉端焼・あじっこ)
 見学にあたり、地理的・地域的特徴として、@外宮鳥居前町山田(河崎含)だけでじっくり見学すれば徒歩では4・5時間ぐらいはゆうにかかってしまうほど巨大な鳥居前町であることA山田において旧来の場所のまま現存する伊勢御師の伝統的な邸宅は2家だけであり、その他は邸宅跡地が大半であるが、八日市場の薬屋小西万金丹や中島や河崎の町並みなど部分的には江戸から昭和の伝統的な家屋は散在していることB従来の指摘通り、中世末期からの「公界堀」である清川が町としての山田を空間的に規程していることC旧来の道(街道や世古)がよく残っていること などが実感できた。
  そのため、大会での見学会においては、上記の特徴を踏まえ効率よい見学ルートを策定(特に駐車場と休憩場所の問題)しなければならないことがわかった。また、このような特徴をより理解するためにも文献史学的な研究課題として、巨大宗教都市である中世末期からの山田の都市の実態をもっと明確にする必要があると考えられる。






2005年9月19日(火) 第17回例会

全国シンポジウム『中世窯業の諸相』              伊藤裕偉
 このシンポは、中世都市研究会2005京都大会と同日の9月3・4日に開催され、筆者は報告者として参加した。内容は、以下の通り(敬称略)。
9月3日(土)
「記念講演:中世の水運と陶磁器」峰岸純夫、「瀬戸系」藤澤良祐、「常滑・渥美」中野晴久、「須恵器系」荻野繁春、「瓦器」森島康雄、「かわらけ」中井敦史、「土製煮炊具」伊藤裕偉、「東日本」飯村均
9月4日(日)
「珠洲・珠洲系」平田天秋、「東海」鈴木正貴、「畿内」橋本久和、「瀬戸内」鈴木康之、「貿易陶磁」山本信夫、<パネル討論>司会:柴垣勇夫・浅野晴樹
 今回のシンポに合わせて作成された資料集は800ページを越え、全国各地の土器編年が掲載された。この近隣では、瀬戸・常滑・信楽といった編年表があり、最新成果も盛り込まれており、重宝である。
 シンポの内容は、技術論や画期に関する議論が中心であった。藤澤氏が提示した「生産ユニットの移動」が、瀬戸系窯以外でも見られるか否かといった観点は、今後重視されると考えられる。また、藤澤氏のほか筆者も土器の詳細な観察から全てが始まることを強調した。課題としては、内容の豊富さに対して発表時間がそれぞれ25分と短かったこと、資料集の図面が非常に見づらい(とくに写真)であったこと(ちなみに、印刷はPDFファイルから紙焼きのダイレクト印刷)などである。
 生産に関する議論は、流通に関する問題にも大きく関係する。今後の動きとしては流通に関する検討が進められるが、今回のようなシンポが開催されるかどうかは未定である。
 会場には320人を越える人が集まり、土器編年に関する関心の高さがわかる。中都研と合わせれば、この日かなりの研究者が中世に関するシンポへと集ったことになる。これらが示す中世に関する関心の高さの意味を充分に考慮していく必要がある。


「中世都市研究会京都大会」報告      竹田憲治
 
さる9月3・4日に中世都市研究会京都大会が花園大学で開催された。
大会の基本理念は、
@中世京都研究のこれまでを総括し、これからを展望する 
A中世京都研究から全国の中世都市研究に発信する
B京都を相対化する
C京都しか考えないのではなく、京都をより深く考えることで中世都市の本質を明らかにする
D京都固有の問題ではなく、京都を論じながら、それが他の都市を考える上でも参考になるテーマ設定を行う
の5点である。
この方針のもと、
(1)仁木宏「日本の中の京都―権力・経済、地域と「首都」―」
(2)百瀬正恒「中世京都―都市域の様相と生産・流通・消費」
(3)野口実「中世前期の権力と都市―院御所・内裏・六波羅―」
(4)高橋康夫「描かれた京都―上杉本洛中洛外図屏風の室町殿をめぐって―」
(5)瀬田勝哉「秀吉が果たせなかった花見―伏見向島の植樹をめぐって―」
(6)川角龍典「中世京都の地形環境変化」
(7)山本雅和「中世京都の街路と町屋」
(8)河内将芳「中世の祭礼と都市空間―祇園会神輿渡御と御旅所を素材に―
(9)福島克彦「洛中・洛外の城館と集落―都市近郊論」
(10)山田邦和「総括と論点提示―日本都市史研究における「階層性」の提唱―」
の10人による発表があった。
仁木氏がこれまでの京都研究の流れとその問題点を提示し、その後百瀬氏から福島氏がそれぞれの専門分野から、最新の京都研究についての論考が発表された。それをうけて山田氏が総括と論点整理を行い、討議を行うという形式である。
個々の発表は、高橋氏の戦国期の室町殿・花の御所に関する問題提起、野口氏・福島氏の京都という場と武家・城郭との関係をはじめ、非常に完成度の高いものであった。
運営に関してもスムーズかつスマートに行われ、その面でも学ぶべきところが多い大会であった。




2005年8月30日(火) 第16回委員会

1 2006年三重大会について
・ 2006年度テーマ (仮)「都市と聖域」
・ 大会指針(第12回委員会検討内容におなじ)
・ 地域的には、伊勢・志摩・伊賀・紀伊を主な素材とする。
・ 伊勢湾沿岸域は湊津が著名な地域であり、その存在を意識して追求する。
・ その一方で、「海の路」と双璧をなす「陸の路」も重視した思考を目指す。
・ 列島をつなぐ結節点としての地域的特徴を重視し、その歴史的背景を追求する。
・ 伊勢神宮をはじめとした宗教的要地としてのあり方を意識する。
・ 列島史のなかでも重要な要素である、伊勢神宮が持つ地域的・経済的な影響力を意識する。
・ 上記により、京都(西国)や鎌倉(東国)を中心とした列島史を相対化する思考を追求する。
・報告者と内容

2 大会の内容
a 日程
期日;2006年9月2・3日(土・日)
場所:未定(津駅近隣)
運営方法
第1日目(9/2)は終日見学会、第2日目(9/3)に研究報告会。

1日目(9月2日)見学会
斎宮歴史博物館集合
@ 埋蔵文化財展「(仮)北畠氏とその時代」の解説と見学
  ・解説(竹田か伊藤)於;斎宮歴史博物館講堂
 ・展示見学
A 見学会
  ・Aコース(宇治山田方面)
  ・Bコース(多気) 
A 懇親会
  ・会場未定(津駅周辺)

2日目(9月3日)研究報告・シンポジウム
8:30〜 受付
9:00〜9:05 挨拶・趣旨説明
9:05〜10:00 基調・総論  岡野友彦氏(中世前期)・藤田達生氏(中世後期)
10:00〜10:40 報告A(信仰と布教)山田雄司氏
  休憩
10:50〜11:30 報告B(屋号分析と地域)伊藤裕偉氏
11:30〜12:10 報告C(山田・大湊と金融)千枝大志氏
  昼休み・図書交換会
13:20〜14:00 報告D(都市とその場)小林秀氏
14:00〜14:40 報告E(市場)笠井賢治氏
14:40〜15:20 報告F(城館立地)竹田憲治氏
  休憩
15:30〜16:30 討議 司会;播磨良紀氏・亀山隆氏



2005年7月23日(土) 第15回例会

水谷豊「遺跡出土の銭貨」
 今回の発表では、発掘調査中に出土する銭貨(遺失銭)が、どんな種類のものがどんな遺跡から出土するのか、その傾向を探るべく資料集成したものである。従来の出土銭貨の研究は備蓄銭や中世墓出土の六道銭に関わるものが中心であった。しかし、これらの銭貨には何らかの指向、意味付けがある可能性があり、発掘調査中に包含層等から出土する銭貨の方がより当時の流通を示すのではないかとの指摘もあり、今回はそれに即して集成をした。おおむね、北宋銭・明銭と大きく2つにわけ、それがどこの遺跡から出土しているのかを見ていったが、いくつか列記しておく。
 1,それなりの中世集落ではそれなりに銭貨が出土しており、1枚というのはほとんど無く複数枚出土すること、2,北宋銭は中世全般を通じて出土するが、明銭は一定量が輸入されていると考えられる15世紀以降になっても備蓄銭・中世墓を除くと一般集落からの出土はあまり見られないこと、(逆に備蓄銭や中世墓には永楽通宝が多く見られる傾向がある)、3,明銭が出土する遺跡は安濃津や北畠氏館跡など特定の遺跡である可能性があること、等が考えられた。今後の課題としては、銭種を細かく見ることにより、使用方法や流通に違いがあるのか無いのか、備蓄銭や六道銭などで使用される銭貨との違いがあるのか、出土する遺跡としない遺跡に違いがあるのかなど、調べることは多い。


福島正身「豊受大神宮遠四至の事」
 
今回、発表させて頂いた「豊受大神宮遠四至」は、延長四年の神祇官符に載っているもので、「東限赤峯并樋手淵。南限宮山。西限粟生岡并山幡淵。北限宮河」と書かれているものを、これまでに、御巫清直、大西源一、 西山克氏等が、実際の地を探して、様々に比定して来たものです。
 自説では、地元に遺されている字地名や資料を使い、樋手淵を山田と宇治の境・地獄谷と呼ばれた地、山幡淵を現在の宮川(ドンデ)、宮河を北宮川の流れていた甫蔵主川近辺に設定しました。この設定では、それぞれの境が外宮正殿から等距離、また、遠四至が方形になり、近四至と形が揃うことになります。


藤田達生「付城戦の展開」

 攻撃・守備拠点としての機能を果たす要塞である付城を、本城級城郭の周囲にごく短期間に多数構築して敵対勢力を孤立させるという戦法は、戦国末期から織豊期にかけて全盛となった。
 織豊期の戦争は、一時的な勝敗を問題にするのではなく、占領地域を領国に編入し、さらには敵対勢力の息の根を止める殺戮戦へと質的に変化した。付城群を有効に活用した戦術は、それに照応するものであった。
 信長をはじめとする天下人達には、付城戦を遂行する資本と技術が蓄積されていた。付城戦には、敵城を包囲する付城群が配置され、それらをつなぐバリケードとして逆茂木や土塁が普請され、堀が伴うこともあった。したがって水攻めも、その一形態に属する。
 本報告では、付城戦を戦国期の国郡境目戦に続く戦争史における一段階として位置づけ、その消長について概観することを試みた。





2005年6月18日(土)
 第14回例会

波多野家文書と瑞光寺文書の調査

瑞光寺文書について
 亀山市関町中町の瑞光寺に伝わる文書群のうち、本研究会の対象となる中世の史料について、所蔵者のご配慮により拝見させて頂くことができた。
 今回取りあげた史料は『萬松山永明禅寺懺法僧衆帳』・『當寺年中行事并祠堂 萬松山永明禅寺祠堂米之施主帳』・『永禄五年申霜月 祠堂納川上』の3件の中世寺院に関わる史料と関万鉄斎の書状等である。
『萬松山永明禅寺懺法僧衆帳』・『萬松山永明禅寺祠堂米之施主帳』は関町会下に所在したとされる永明禅寺に関する資料で、『懺法僧衆帳』は結集帳として永正元年から天文4年までの懺法僧152名の名前と納めた額(多くは200文)が記されている。永明禅寺を中心に行われた講衆の名簿と思われるが、関氏被官の小野氏や穂積氏、葉若氏の殿原層や西市庭五フクや金屋・大工などの商職人が見られる。また、懺法僧の名前からは鈴鹿川中流域に分布していることがわかる。一方、『祠堂米之施主帳』は祠堂米の納額と施主が記されたもので、75名の法名が記されている。筆跡からリアルタイムで書き加えられていった様子が窺える。ここでは『懺法僧衆帳』に見られなかった関氏やその一族をはじめ、殿原層や女官、寺庵・神主、商職人、領主被官など幅広い階層が見られる。法名は俗世の階層に対応し、国人領主関係は大居士や大禅定門(尼)、童子・童女、殿原は禅定門(尼)、それ以外は禅門(尼)となっている。また、この施主帳に見られる名前も鈴鹿川中流域に分布している。なお『懺法僧衆帳』に見られる「小野殿内ユウキリ」(夕霧)、『祠堂米之施主帳』に見られる「小野之内藤壺」は源氏物語に由来する名称と思われ、当時の教養レベルを知る上で興味深い。
 『永禄五年申霜月 祠堂納川上』は・永禄五年に作成された祠堂米を納めるための年貢帳の類で、「川上」は瑞光寺を指すと考えられる。寺院内部の組織と思われる常住方、祠堂方などにそれぞれ祠堂米・麦を納めている。個々の項目は年貢の納入額とその内訳、田地の所在地(字)、作人を記載したもので公方年貢が記載される項目もみられることから、加地子帳の類の可能性が指摘された。田地の所在地の半数は現在の字名と一致し、作人の分布はやはり鈴鹿川中流域に分布する。また、公方年貢は穂積氏や葉若氏など関氏被官が収取しており、小領主が本年貢系の公方年貢を収取していた様子が窺える。
 以上紹介した3件の中世寺院に関わる史料から、永明禅寺や瑞光寺が宗教を媒介として鈴鹿川中流域の在地の村落に影響力を及ぼしていたことが窺え、中世後期の当地域の在地の様子を知る上で欠かせないものである。(笠井賢治)





2005年5月14日 第13回例会

播磨良紀「戦国・織豊期の四日市場の構造

 本報告は、文禄3年(1594)の四日市場検地帳の分析から戦国・織豊期の四日市場を復元・考察したものである。文禄検地帳にみえる小字名を、明和5年(1768)「四日市町絵図」にみえる地名との対照し、寛文年間(1611〜1673)の四日市町絵図に地名をおとした。その結果、豊臣期の四日市場域は江戸時代の四日市町域とほぼ同じであり、東海道西部を中心に発展し、東部・北部が開墾されていったことがわかった。屋敷地は東海道上の「北町」・「町」、さらに東海道に交わる東西の道路に位置する両端の「西ノ出口」「はま町」に集中しており、さらに江戸時代の南町周辺と推定される「多」には屋敷地が最大数存在していた。このことにより、検地時には「町」と認識された「北町」「町」「はま町」と、「町」とは認識されない屋敷地集住地域の「西ノ出口」「多」があり、前者は検地以前からの、つまり戦国期から存在する町で、後者は徳川家康所領後以降形成された町と推定した。したがって、四日市は戦国期には東海道上の北町周辺と湊の「はま町」からなり、豊臣期には西部と東海道南部に屋敷地集住地域が広がっていたものと考えた。
以上、四日市場の構造を考察したが、四日市は従来考えられるような江戸時代の五十三次創設時に町が出来てきたのではなく、すでに戦国・織豊期にかなりの都市空間が成立していたといえる。




2005年4月9日 第12回例会


第12回例会は、2005年度の会運営と2006年大会に関しての打合せを行いました。

<例会の運営>
月1回を原則に、定期的に実施することとしています。例会の情報は、HPの「Schedule」を随時ご覧ください。なお、2月は「プレシンポ」を開催する予定です。

<2006年大会の指針について>
全体の指針として、つぎのような観点が出されました。
・地域的には伊勢・志摩・伊賀・紀伊を主な素材として扱うこと。
・伊勢湾沿岸地域の湊津が著名な地域であり、湊津の存在は意識して追求すること。
・その一方で、「海の道」と双璧をなす「陸の道」も重視した思考を目指すこと。
・列島をつなぐ結節点としての地域的特徴を重視して、その背景を追求すること。
・伊勢神宮を中心とした宗教的な要地としての存在を意識すること。
・地域権門としての伊勢神宮が持つ鉄塔東部太平洋沿岸地域を中心とした伊勢湾西岸部の歴史的・地理的な影響力は列島史のなかでも重要であること。
・このような特徴から、京都(西国)や鎌倉(東国)を中心とした列島史を相対化する思考を意識すること。

<研究書の作成について>
研究会に合わせて、実行委員会による研究書を作成します。掲載先は『Miehistory』(三重歴史文化研究会)とし、特集号として{三重の中世}を編集することとしました。
                           (以上、文責 伊藤裕偉)





2005年3月19日 第11回例会


テーマ「ブロック形屋敷地群の検討」
<概要>

 
 今回の例会は、近年の発掘調査で確認事例の多い「ブロック形屋敷地群」の事例検討を中心に、勉強会方式で実施した。内容は、「ブロック形屋敷地群研究の現状」(伊藤裕偉)、「松阪市小津遺跡、中林・中道遺跡の発掘調査成果」(山中由紀子)、「三重県桑名市志知南浦遺跡の調査成果」(酒井巳紀子)である。
 伊藤は、中世集落研究の現状と課題を検討するために、現在最もまとまった研究成果といえる佐久間貴士氏による研究視角を素材に、中世集落研究に関する問題提起を行った。山中氏は小津遺跡と中林・中道遺跡の調査成果を、酒井氏は志知南浦遺跡の調査成果を紹介し、それぞれの遺跡で観察される様々な特性を見た。
 事例報告の後に、検討会を行った。文献史料から窺える遺跡周辺の諸環境、宗教的要素の重要性、道との関係、屋敷地の持つ意味、城館遺跡との比較検討など、中世集落遺跡を検討する上での重要項目を、調査遺跡に即して再確認することができた。最も重要なのは、発掘調査で確認される集落遺跡を既存の区分に押し込めることがあまり建設的ではないということを再認識することができたことであろう。それぞれの集落遺跡を評価するに際しては、先に分類があるのではなく、様々な情報を得ながら検討を深めていく必要があることを共通認識として持つことができたと思われる。                    (伊藤裕偉)


「ブロック形屋敷地群研究の現状」(伊藤裕偉)
 中世の集落遺跡に関する研究のなかで、佐久間貴士氏が提示された分類案(佐久間「発掘された中世の村と町」『岩波講座日本通史』第9巻 1994年)や『図解・日本の中世遺跡』(小野正敏編、東京大学出版会 2001年)での記載方法を紹介することで、検討会の素材を提供した。中世集落遺跡の分類のなかで「村」や「町」といった区分そのものが適当かどうか(可能かどうか)、可能であれば、どのような視角から見ることができるのであろうか。既存の区分に当てはめることが重要なのではなく、その遺跡をいかに読み解いていくのかを考える素材として分類を行っていく必要がある。発掘調査事例の検討そのものから、それを考えていくことが重要であろう。


酒井巳紀子「桑名市志知南浦遺跡の調査成果」

 今回報告した志知南浦遺跡は、縄文時代・古代〜中世までの複合遺跡である。

遺跡の位置 志知南浦遺跡は、北を員弁川が流れ、南を桑名と近江を結ぶ八風街道が通っている交通の要所である。八風街道に関しては、近世は、菰野町田光から朝明川沿いに下り、富田付近で東海道に合流するが、中世は大安町梅戸から員弁川沿いに下り、坂井橋から桑名へ抜けるという。また、志知南浦遺跡の周辺は、平群神社や(伝)平景清屋敷跡や志知城・島田城が存在する。
   明治の地籍図によると、当遺跡は字十王堂、東を字若宮、鎮守堂という字もあり、付近に大きな寺があったとも伝えられているとともに、近くの蓮敬寺の山号は景清山と称している。

遺構の概要 中世前期は、数条の溝とともに後期に見られる屋敷地を区画する溝が先行して掘削されている可能性がある。そして、井戸や土坑、墓等を遺跡全体に検出している。主な遺物は、墨書土器、山茶椀、土師器皿、南伊勢系土師器鍋等である。
 中世後期も引き続き、数条の溝、井戸、土坑等を検出している。溝は、志知付近の表層条里方向18〜20°と同じ方向であり、屋敷地を囲む溝を形成している。そして溝間の距離はおよそ28〜36mの範囲で、4つ屋敷地がある。主な出土遺物は、墨書土器、天目茶碗・擂鉢等の瀬戸美濃製品、土師器皿、中北勢系土師器羽釜等である。
屋敷地の検討 4つの屋敷地について、特徴等が見られないかを検討するために@貿易陶磁の分布A動物の骨の分布B「仏」に関する遺物の分布C墨書土器の分布を試みた。@からは、全体に出土が見られるものの区画4に集中する。Aからは、区画2を形成する溝からの出土が多く、区画2で牛馬の解体等の作業が行われていた。Bからは、区画を形成する溝からの出土が目立つ。Cからは、区画2がもっとも少ない。という結果を得、区画2に関しては、他の区画と異なる様相が窺えた。
検討と課題 @遺跡の周辺について、周辺の環境や歴史的背景(平景清や藤原実重のように当地域にゆかりのある人物)をについて様々なご教示を得、調べていく必要がある。
A小津・中林中道遺跡との検討から、共通する要素(出土遺物等)も見られ、集落遺跡を検討していく要素の抽出が非常に難しい。
B志知南浦遺跡は、古代〜中世まで継続して遺物が見られるため、今後更に詳細な遺物・遺構の時期決定が必要である。




第10回研究会 2005年212日(土)

「北畠氏館跡第12次発掘調査現場の見学」
「北畠氏館跡ほか出土土器の検討会〜京都系土師器を中心に〜」


 今回の例会は、北畠氏館跡第12次発掘調査現場(美杉村上多気、北畠神社境内)の見学と、出土遺物の検討会を中心に行った。現地見学は、発掘調査担当の石淵誠人・小林俊之の両氏による説明を伺った。
 第12次調査区は館跡想定地のほぼ中心部分にあたる。昨年度実施された第11次調査区の南に接して設定された調査区である。第11次調査区では、館跡ではじめて明確な礎石建物(前期整地面上)が確認されている。その南の状況を把握するとともに、館跡中心部の様子を把握することが目的とされた調査である。
 調査地は、伊勢湾台風で崩落した土砂が3m近く堆積していた。その下には、第2次大戦後間もなくまで存在していた小学校校舎跡があり、それによる撹乱があり、遺構面はあまり安定していない状況であった。しかし、第11次調査区から続く礎石建物が存在していることや、栗石を伴ったピットなどがあった。これらの遺構は、いずれも16世紀代以降と考えられるもので、北畠氏館跡の「後期整地面」とされる段階に、2時期以上の建物群が存在するものと考えられる。また、撹乱土やピットなどの断面に現れた整地層の状況からは、「前期整地面」の下にも遺構面が存在している可能性が高く、「プレ前期面」が存在するものと考えられる。なお、今回見学した遺構は多くが後期整地面に相当するもので、前期整地面の状況は、今後継続する調査で明確になろう。
 現地見学後、美杉村埋蔵文化財整理所に会場を移動し、出土遺物の見学と検討を行った。遺物は、北畠氏館跡のほか、大安町丹生川上城跡、四日市市赤堀城跡・米田遺跡、関町(現亀山市)加太市場遺跡、亀山市沢遺跡・亀山城跡、津市安濃津遺跡群、上野市(現伊賀市)箕升氏館跡などの出土資料を、四日市市教委・亀山市教委・三重県埋蔵文化財センターの協力のもと持参し、検討を行った。検討資料は、主に15世紀後半から16世紀代にかけての京都系土師器を中心としたものである。京都系土師器は、用いられる素地が遺跡単位で異なるものの、手法的には非常に類似しており、とくに米田遺跡と北畠氏館跡の資料は極めて類似したものである。また、赤堀城跡で大皿が出土していることは大変興味深い。さらに、比較資料として持参した各地の中北勢系の皿類は、遺跡毎での違いがあるようで、南伊勢系とは際だった違いを見せている。このような、土器の形態が示す地域の違いとは何に起因するのであろうか。土器を持ち寄っての検討会は、非常に有意義であり、今後も継続的に開催していく意味があろう。
遺跡見学と資料検討には、美杉村教委の石淵氏・小林氏に大変お世話になりました。ありがとうございました。
                   (文責・伊藤裕偉)



第9回研究会 2005年1月29日(土)


小林俊之「中世後期における伊賀の地域構造と庭園」

伊賀地方では、まれに不定形で大きな土坑が検出されることがある。この土坑は、その埋土が粘性を帯びていることから「貯水土坑」「水溜遺構」という評価がされている。それらの多くは中世城館の発掘調査で検出されており、これらのうち一部は報告書中にて池である可能性は指摘されていたものの詳細に検討しているものはなかった。そこで今回は「貯水土坑」「水溜遺構」の例を7つ挙げ(風呂谷館跡、蓮花寺跡推定地遺跡、箕升氏館跡、菊永氏城跡、安田氏館跡、神ノ木館跡、野添遺跡)、それらの共通点や土坑内部の状態、屋敷内での配置に着目し、次の4点が挙げられることを指摘した。
 (a)水が溜められる点
 (b)意図的に石を配置する必要がある点
 (c)主屋からこれらの土坑が臨める距離にある点
 (d)区画入口から柵により視覚的に遮断されるものもある点

 単なる洗い場等の施設ではこのような状況は不要である。また(d)の点からは屋敷内の特殊空間の意識(いわゆる「ハレ」「ケ」の意識)がうかがえる。このような点から伊賀の「貯水土坑」「水溜遺構」を園池遺構の可能性があることを指摘した。
 またこれらの伊賀で見られる遺構と全国で見られる中世後期の園池遺構と比較。伊賀地方の場合は中小規模の城館や屋敷にまで園池が作られている。園池はある程度の権力の存在が窺えるもので、「惣国」などと表現される中世後期の伊賀国の状況=統一権力の不在を表しているものではないか、と考えた。

 発表後には以下の問題点が指摘された。
  1 時期的な検討がまったくされていないので、再チェックする必要があること。
  2 単なる水溜との違いについて。
  3 伊勢国の平野部で見られる大形土坑との違いはあるか。また他国の特徴的な土坑とも比較する必要があるのではないか。

  4 伊賀の例でも他に検討すべき例があり、さらにデータを集め検討する必要があること。
  5 庭園史の流れの中で位置付けをする必要があること。
  6 該当遺構の近隣に特徴的な遺物は出土していないか。

 時期的な検討については今後の大きな課題である。ひとくちに中世後期と言っても15世紀代と16世紀代は社会構造等の点で大きな違いがあり、園池遺構の背景や地域構造を考えるならば、年代を考慮した検討が必要である。さらに変遷が明らかになることによって性格についても言及できる可能性も指摘された。
 また単なる水溜との違いについては、立地等さらに多くの要素をとりあげ、園池であることを述べていく必要性を指摘された。加えて今回指摘された検討すべき事例を含め再整理する必要があることも指摘された。
 庭園史の流れについては、特に同時期の寺院庭園について注目する必要を指摘された。元々武家庭園も寺院庭園から派生したもので、ここからも伊賀における園池の発生を考えるきっかけになるのでは、という意見もあった。
 この他にも様々な点が指摘された。今後はこれらを参考にさらに詳細な検討が必要である。



第8回研究会 
20041218日(土)


M辺一機「伊勢における京都系土師器皿の受容と展開〜中世後期を中心として〜」

 今回の報告では、中世の考古資料のうち全国に広域な分布が見られる、「京都系土師器皿」を取り上げ、現在までの学史を振り返り、特に伊勢の出土事例について検討を加えた。
 中世都市・京都で出土する土師器皿は京都近郊で生産がなされ、都市部を中心に流通していた。さらに、京都以外に全国各地の広い地域では、これらの模倣生産をおこなった、京都系土師器皿の広域な分布が認められる。16世紀代には戦国大名の領国域の本拠地において目立って出土するほか、近年の研究では武家儀礼との関連性も指摘されている。こうした、京都系土師器皿は必ずしも京都近郊に限定されるのでなく、全国に広く展開することから、在地の土器生産の分析のみならず、政治的・文化的なかかわりなど多様な側面から検討し得る考古資料といえる。
 以上のような、近年の京都系土師器皿に関する研究動向を踏まえ、本報告では伊勢の出土事例について分析をおこなった。その結果、詳細な時期決定ができる資料は少ないが、城館に関連するものを中心に15世紀後半〜16世紀前半の事例が多いこと、分布状況の検討から、広い範囲で分布が認められる鈴鹿川以北の北勢地域に対し、これより以南の中・南勢地域では北畠氏関連遺跡にほぼ限定されるように地域間の相違が認められる点を明らかにした。また、在地産の土師器皿と京都系土師器皿との比較から、北勢地域では京都系土師器皿の影響を受けたと考えられる一群が見られるのに対し、中・南勢地域ではこうした影響が少ないことを確認し、分布状況の違いには、両地域における京都系土師器皿の受容状況の相違が背景にあることを指摘した。
 しかしながら、全国の研究動向を概観すると、各地で京都系土師器皿の検討が深化しつつあるが、どの要素をもって「京都系土師器皿」とするという確固とした定義づけが十分なされていないことに気付く。換言すれば、研究者によって、「京都系土師器皿」の概念や捉えかたが異なる点は否めない。地道ではあるが、各地域の在地系土師器皿の厳密な検討から、京都系土師器皿を相対化し、それぞれの地域において、これらの一群の詳細な位置付けをおこなう作業が必要である。こうした作業の積み重ねによって、文化的・政治的側面にまで踏み込んだ、個々の豊かな地域像を解明することも可能となろう。




第7回研究会 2004年11月20日(土)

 久居市戸木町上野遺跡発掘調査現場の見学

 今回の例会では、発掘調査が行われている久居市戸木町の上野遺跡の発掘調査現場を見学した。上野遺跡では2000年に発掘調査が行われ、弥生時代から中世後期までの様々な遺構・遺物が発見されている。中世に限って言えば中世前期から戦国期の屋敷地と道路、道路部分を壊して掘削された大規模な堀(以下「大堀」)が見つかっている。大堀については、藤田達生氏により天正12年(1584)の戸木城攻略にあたり、羽柴方によって築かれた付城の遺構ではないかという説が提示されている。

 見学を行ったのは大堀が直角に南に折れ、谷に落ちていく部分である(写真1)。この部分にはこれまでにも堀底から郭内に入るための虎口があるのではという想定がなされている。発掘調査でも谷から上がってくる通路状遺構が3ヶ所確認(写真2)された。これらの通路状遺構は「付城」以前の3区画の屋敷地(1416世紀)に対応していること、郭内への虎口が3ヶ所も明けられていることは防御上不自然であること、これまでの調査(第1次調査9区)でも類似する通路状遺構があったことなどから、これらは中世後期の屋敷地にともなうもので、付城の虎口である可能性は低いのではないかと考える。ただし最も北の通路付近には自然地形の起伏にあわせている屋敷地の遺構群とは異なり完全にフラットにされたテラス状の削平地(写真3)があり、これに関しては付城の虎口関連の遺構になる可能性がある。今後、谷に向けての部分の発掘ではこの部分がどのようになるかを注目したい。

 発掘調査は大規模に展開しており、北端部では中世前期の掘立柱建物や溝、通路遺構が確認されていた。この部分の通路では波板状遺構を持つもの(写真4)もあり、谷から台地に上がるための通路がここかしこに付けられていたことが推定できる。古墳や方形周溝墓もあり、あらためて大遺跡であることを確認させられた。

  見学にあたっては久居市教育委員会の辻さんには休日であるにもかかわらずご丁寧に対応していただきました。お礼を申し上げます。
    (文責 竹田憲治)



戸木地区に関連する史料について

 木造荘中世史料調査(三重大学)とその補遺作業(久居市教育委員会生涯学習課)の成果を示し、上野遺跡ならびに戸木地区見学の便宜をはかるとともに、ご批判をいただこうとした。なお、資料調査の成果を公開するべく補遺の作業は現在も継続している。
 さて、上野遺跡のシンポジウムは三重大学側主催、久居市側主催による計2回が行われている。このシンポジウムで報告された内容の内、考古学(1回目、2回目)、城郭史(1回目)の報告が上野遺跡を中心に据えたものであった。しかしながら、文献史学を軸に据えた報告では、史料的制約から木造地区の検討が中心となり上野遺跡および上野遺跡のある戸木地区の位置づけが積極的に行われたとは言い難い。シンポジウム関係者による戸木地区への積極的言及が不可避となっているといえよう。そこで、木造地区の近世・近代史料に見える歴史認識、地域認識を抽出、配列し、今後の検討の足がかりをつくろうとした。
 現在の研究状況は、第1回のシンポジウムの結果を発展させた報告書『三重県久居市上野遺跡に関する総合研究』に代表されている。この報告書に於ける戸木地区の取扱に関する問題点としては、小字名を活用しているもののその小字名認識に多少の混乱がみられる点が挙げられる。そこで、戸木地区の地籍図(久居市役所所蔵)の全撮影を行い(久居市教育委員会生涯学習課による木造荘中世史料調査の補遺作業の一環として)、郷土教育資料・地誌(戸木小学校、栗葉小学校所蔵)・自治体史などと対照させた。結果は以下の通りである。
@ 所謂「上野遺跡の付城部分」とされている部分の字名は「導垣内」であり、字「羽野」ではない。「導垣内」は元は「大藪」「川原田」「上野」という字であった。「導垣内」には戸木の大蔵寺の移転伝承があり(『久居市史』下)、「大蔵寺山」とよばれる土地が「導垣内」の中にあった(『久居市史』下)。大蔵寺は木造氏に関する由緒も有して(『勢国見聞集』『松阪市史』所収)いたが、明治期の地誌類には木造氏の由緒、移転伝承ともに記されていない。
A戸木地区における@以外の寺院に関する伝承は、無窓礎石が伊勢国に建てたといわれる善応寺(『本朝高僧伝』)(現在は団地の名として残る、字「浜塚」「矢硲」)、正福寺の二件ある。内善応寺は同名の寺院が庄田町に江戸末まで存在し、明治には堂宇が会所として使用されていた(栗葉小学校所蔵郷土教育資料)。
B近代に於いては、戸木の字「矢硲」(雲出用水の取水口北側)は雲出川上流から舟運によって送られる薪炭の陸揚場所となっていた。しかし、舟運は農業用水が必要な季節には不可能であった(戸木小学校所蔵郷土教育資料)(ちなみに木造地区の舟運には季節性はないようである)。
C戸木の庄屋の由緒書が、川原田行雄家文書(久居市図書館蔵)の中に存在していた。
 以上の事項が指摘できたが、これらの殆どは、近代の歴史認識・地域認識から浮かび上がった像である。くしくも当日の宮山城巡検時、宮山城が元は木造氏の出城だったという地誌に基づく認識への疑問が示されたが、今回の作業で明らかにした歴史認識を相対化し戦国・織豊期の実像へせまる作業が今後の課題と考えられる。
 ※当日敏太神社境内でおこなった説明を基に補足いたしました。
   (文責 太田光俊)



第6回研究会 2004年10月30日(土)

千枝大志「「中近世移行期における伊勢神宮鳥居前町山田の都市的様相をめぐって〜特に山田外縁地域・外宮との関係性と実態を主軸として〜」


 本報告では、中近世移行期の伊勢神宮外宮鳥居前町山田の都市的様相について、特に当該期に都市的形成が見られたと位置づけられる山田の外縁部の地域構造の実態を論じた。既に報告者である私は、山田外縁部である勢田川流域内の河崎郷を戦国初期から急激に整備された当該地域の商品流通の『宿』的存在とし位置づけ、河崎が伊勢神宮外宮や内宮をはじめ、その鳥居前町である山田(含中心部)や宇治、そして伊勢神宮外港である大湊等にも金融と物流の面で影響力を与えていることをまず指摘した。その上で、河崎に存在した金銭と米の当該地域統一の相場である『河崎相場』を基に、大湊や河崎で山田や宇治等の当該地域の内陸部よりも厳格な貨幣の峻別が行われていた実態を提示し、その行為自体を港湾地域の金融・集荷機能として評価し、当該期の山田はこのような港湾地域の機能を含めて地域構造化を図っていたことを口頭報告したことがある(『第37回日本古文書学会大会報告』2004年10月3日於筑波大学)。
 しかし、再度その報告内容を吟味した結果、近年当該地域でも導入が試みられている人的側面からの地域構造の描写の視点が上記の口頭報告では趣旨の違いもあり(貨幣・金融論や史料論からの行論)それ程組み込められてはおらず、地域住民の具体像が不明確であるという問題を実感するに致った。したがって本報告では、中近世移行期の当該地域に人的側面からの地域構造が内在しているかどうかを地域間の人的ネットワークという視点で検証することを試みた。その際特に、中近世移行期当該地域の水運論や流通論を展開するため従来より重要視されてきた伊勢信仰の伝道者であり、かつ祈祷師兼旅籠業者で商人的側面を持つといわれる伊勢御師の物流面での実態に注意を払った。
 当時の伊勢御師の有力旦那は戦国武将層であったが、彼等が戦争時に伊勢御師へ戦勝祈祷等の宗教的側面以外に期待していたことの一つに兵糧米などの軍事物資の調達がある。その期待した一人に木下備中守重隆なる戦国武将がいた。彼は東国の陣際、師旦関係のある山田外縁部である二俣郷に居住した外宮御師である北監物大夫に大湊での兵糧米の調達を依頼し大湊年寄に北家が掛け合うという、大湊との人的ネットワークを期待した兵糧米調達を北家に依頼したことがあった。当時、北家は山田の商業中心地域で中心部である八日市場に居住した三方年寄家の名家福嶋左京家の遺跡を継承していた。この福嶋家は、以前より大湊の有力商人北二郎兵衛家と親戚関係にあり、その関係を利用して廻船を用いて旦所巡り等の経済活動を展開していた。福嶋家の遺跡を継承した北家は上記の木下氏のようなニーズには、福嶋家が既に有していた人的ネットワークを利用することでそれに対応し得たのものと想定できよう。つまり、北家の福嶋家継承の背後には自らの家筋強化の意味合いの他に福嶋家が獲得していた大湊商人との人的ネットワークの吸収の意味合いもあったと想定できる。
 したがって、この事例から従来から知られる『伊勢御師=廻船主』という単純な図式とは異なる人的な地域構造が内在し、その人的ネットワークの形成と吸収がひいては山田周辺部(大湊)・山田外縁部(二俣)・山田中心部(八日市場)の地域間ネットワークの形成と強化の一因であると指摘できる。さらに当時、織田信雄は二俣郷中に棟別米や間別米を賦課しているが、その搬出の多くは河崎で行われており、信雄の『被官人』的存在である北監物家はそれらの徴収を免除され、搬出の際には主体的に関与するなど、地域内での特権的地位を維持していた。また北家個人から信雄への金銭の受け渡しの際にも河崎在住商人を介在させている。このように織田信雄のような公権力は二俣のような山田外縁地域を人的に掌握し、そこに内在する人的ネットワークを吸収し流通をも掌握していたのである。
 つまり、戦国初期に都市的に形成した山田外縁地域である二俣郷(上之郷)と河崎は相互で人的なネットワークでつながっており、ひいてはそれが地域同士のネットワークとして発展しているといえ、既述の大湊との人的ネットワークをも考慮すると山田周辺部(大湊)・山田外縁部(河崎・二俣)・山田中心部(八日市場)は人的ネットワークを介して地域間結合をはたしていたといえるのである。このような人的ネットワークは他にも類例が検出できることから(二俣の御巫家と河崎の加藤与三家と八日市場の福嶋御塩焼家、河崎の村田家と岩淵の久保倉家など)、各郷それぞれの領域の独立性が強いとされる山田においてはそれらの地域を繋げるための大きな地域構造の要素としてそれが内在していると規定できよう。
 したがって、この地域に内在する地域間の人的ネットワークは当該地域の地域特性の一つとして提示できるのである。今後もこのような当該地域の人的ネットワークの具体例をより一層検出し、当該地域の地域構造の一つとして提示できるように心がけたいと考える。その際、地域内の有力者(伊勢御師や廻船業者等)の存在形態(特に公権力との関わり)について注意していく必要がある。





第5回研究会(松ヶ島城見学会) 2004年9月18日(土)

解説:竹田憲治
松ヶ島南東部
 松ヶ島城は、天正8年(1580)に織田信長の次男信雄によって細頸の地に築かれた城跡である。天正12年(1584)の落城ののち蒲生氏郷が入城し、天正16年(1588)に氏郷が松坂城に移るまで本拠としていた。これまでにも、小島道裕氏、三渡俊一郎氏・穐山泰次氏・福田哲也氏の論考があるが、今回は最新の細谷公大ほか「伊勢国松ヶ島城とその城下の景観」(『歩跡』5号 皇學館大学考古学研究会 2003年)をテキストに、松ヶ島城跡とその城下の見学を行った。
交通路の導入 松ヶ島は、伊勢湾に面した浜堤上に立地し、古代末から「保曹久美」(ほそくび)などとみえ、伊勢参宮に向かう途中に三渡川の渡し場の一つであった。織豊期には、さらに西にもあった伊勢街道を引き込んでいる。そのルート付近には「材木町」・「北市場」・「本町」・「西町」・「樋ノ町(おけのまち)」などという地名が残る。しかしこの部分は新田開発や国道工事により往時の姿は留めていない。
城郭部分 松ヶ島の中で、「城郭」と考えられているのは、「城の腰」の天守台跡とその周辺、「丸引き込まれた伊勢街道之内」・「殿町」の部分である。天守台は本丸の端で、往時には海に張り出していたと推定されている。しかし天守台といっても、石垣は既になく、瓦片や土器片が散乱する。「城の腰」を含む本丸部分では、スラグは表面採集されている。また耕作中には井戸や栗石がみつかったこともある。
 「丸之内」には、「蒲生屋敷」とされる場所がある。この付近には僅かに内堀の痕跡も残っている。また隣接して「八雲神社跡」も存在する。また、「殿町」では分銅らしき金属製品、コビキAの瓦や人頭大の石列も出土したことがある。 
「城下」部分 「城の腰」・「丸之内」・「殿町」から南に向かい「踊橋」を過ぎたあたりには、「鍛治町」・「魚屋町」・「北町」・「長町」などの町場らしい地名がある。この付近には墓地や寺院も存在したとのことである。また、北には「小蔵町」がある。「小蔵町」には「元蔵屋敷」といわれる部分がある。ここはこれまでの研究者たちが「舟入」を想定している「ドン亀」とよばれる沼沢地にも面している。細谷氏の想定ではこの「舟入」がかなり大きく設定されており。このあたりは確認が必要である。またこの付近では北畠氏と関連すると思われる、菱紋の入った軒平瓦も出土している。
松崎浦 「小蔵町」から堀(浜堤を分断する)を挟んだ部分が松崎浦である。この堀は慶長2321日付けの宇野久右衛門書状で「御寺前堀」として出てくる堀である。この堀では河川改修事業が予定されており、保護・保存が課題となっている。松崎浦には南北に数条の街路がのこり、短冊状の地割も顕著にみられる。その北端には松ヶ崎神社がある。この部分で注目すべきは、神社が松崎浦の地割に規制されずに南北方向に作られていることである。神社が町割りに先行して存在していた可能性を示唆するものなのかもしれない。
 以上、松ヶ島の見学を行ったが、現状が集落になっているものの、その保存状態は極めて良好であることが再確認できた。しかしながら虫食い状の開発は進んでおり、早急に保護の手立てを取る必要性もあると思われる。見学会の内容については、次回学習会にて検討する予定である。





第4回研究会 2004年7月17日(土)

山際文則「中世都市研究史」

 1950年代から現在までの都市研究史、特に考古学における学史を取り上げた。
 従来から指摘されているように、文献主導であったものが、60年代に入ると考古学では広範囲にわたり中世都市遺跡の発掘が行われはじめたこと(一乗谷、草戸千軒、大宰府など)。70年代では、網野善彦氏の「都市的な場」に代表される一連の論により、これ以降氏の提言と短絡的に結び付けた具体的・実態的な空間でない膨大な中世都市を出現させてしまったものの、平安京の調査に見られるように遺構面や層に着目した方法論が確立されたこと。80年代は空間=場の分析を接点に、文献・考古・建築の共同研究が始められ、90年代はそれを発展継承し、前川要氏によって「都市考古学」が標榜されるに至ったこと。そして近年では都市それ自体の把握に限定せず、このことにより都市へのアプローチが多岐に渡ることを再確認した。
 学史を概観すると、共同研究が深められたとはいえ、共通の「中世都市とは何か」という定義がいまだ整理されていないことに気付く。個々の研究者が個々の都市像を持ち、それぞれの方法論で都市へアプローチすることから非常に魅力的な都市像が浮かび上がってくるのは事実だ。ただ、果たして共通した理解を深めることができるのだろうかという素朴な疑問を感じずにはいられない。不毛な問いに終わるかもしれないが、今一度「中世都市とは何か」という検討が必要なのではないだろうか。

小林秀「中世都市研究の一視座―度会郡山田郷を中心に―」

 本報告では、中世後期に、「三方」と称する強固な自治組織のあったことで知られている山田の町屋形成について、特に屋敷売券を中心に検討した。その結果、街道や「世古」沿いでは短冊形の細長い地割が、遅くとも16世紀以降は普遍的に形成されていたことを指摘した。また、山田内では、場所により地価に著しい差があり、中でも八日市場では、その特徴が顕著であった。これは土地利用による差と考えられ、極めて都市的な特徴と言える。
 反面、山田を中心に見られる、南伊勢地域で特徴的な妻入り住居は過密な町場には不向きであり、山田が本来、農村的な集落から急速に都市化したことを示している。このことは、土地売券の中にも特徴的に現れている。
 短冊形屋敷を御師屋敷の「前屋敷」と解することは困難であり、後背に位置する御師屋敷は、既存の寺庵地や、それを含む広大な藪などを買得することで形成されたと考える。その傾向は、特に16世紀以降の、神役人等の職掌人層を出自とする御師に顕著であった。また、彼らの進出の背景には、恒常的な神税徴収による物資の流通や、伊勢信仰の大衆化による参詣者の増加などがあったと考えられる。





第3回研究会 2004年6月19日(土)


山田雄司「中世伊勢国における時衆の展開」

 これまでの中世都市に関する研究では、都市の要件として交通の要衝であることが注目されている。そのような場所は人々が集住し、教えを広めるのに効率的で、有徳人の住む場所であり、喜捨を受けることも期待できた。時衆は一遍以来、湊・津・市場・宿などに立ち寄って教化しており、湊に時衆が存在した例として、越中放生津・越後直江津・博多息浜などがあげられている。
 伊勢国内を見てみると、『時衆過去帳』によると、桑名、四日市、日永、白子、窪田、安濃津、矢野、阿須賀、平尾、山田などに時衆の徒がいたことが確認できる。また、『遊行三十一祖京畿御修行記』からは、同念が安濃津から白子浦まで荷送舟に乗っていき、大衆は陸路桑名津まで行っていることがわかる。遊行上人は伊勢湾岸を舟で回ったことが多かったのではないだろうか。津・湊はさまざまな宗教が混在し、富が集中し、情報が取り交わされる場所であった。


藤田達生「藤堂高虎の都市計画」


 本報告では、藤堂高虎が慶長16年(1611)正月から同時に開始した伊賀上野・伊勢津両城郭の改修・両城下町建設の歴史的意義を究明することを課題とした。
 上野については、以下の二点を指摘した。
@城郭を抜本的に改修し、大坂方の攻撃が予想される西側に曲輪を拡張して本丸とし、比高差30メートルという第一級の高石垣を築いた。主郭(旧本丸)の大手を南に変更し、大手を南側の東西の両口とする。
A城下町を、要害性の高い城郭南側の上野台地上に移転させて、三筋町として凝縮した。
 津についても、以下の二点を指摘した。
@城郭を北向きに改修し、大坂方の攻撃に備えるとともに、前任地の伊予今治城の資財などを活用し、きわめて短期間に本丸や外郭を拡張した。
A城下町に伊勢街道を導入し、宿駅機能をもたせた。また伊賀街道を整備することによって、津が東国と上方を結ぶ流通の結節点になった。
 当時の高虎は、大坂包囲網を形成するために公儀普請(天下普請)に積極的に関与したが、自領の城郭もその一環とした。また上野と津を街道で直接結ぶことで、伊賀から中部伊勢におよぶ藩領が領国として自立することをめざした。なお詳細については、拙著『日本中・近世移行期の地域構造』(校倉書房、2000年)第7章・第8章を参照されたい。




第2回研究会 2004年5月15日(土)


竹田憲治「加太城跡と加太氏館跡」

 鈴鹿郡関町大字加太市場は、中世後期に鈴鹿郡・川曲郡に勢力をもった国人、関氏の有力な家臣である加太氏の本拠と考えられている。盆地の北の山上には、この地域としては比較的規模の大きい山城である加太城跡があり、その麓の神福寺は加太氏の館跡とされてきた。
 しかし、神福寺から西に約0.5km離れた字「市場」にて近年、発掘調査が行われ、15世紀から16世紀の掘立柱建物跡や大量の土師器皿類・青磁盤が出土した。筆者はこの成果をもとに、近世の地誌類、絵図、明治の地籍図、中世遺物の散布状況、山上の城跡との関係などを分析し、加太氏の館は字「市場」周辺にあった可能性が高いことを確認した。
 従来の研究では、加太の四周には中世城館があり、盆地内には家臣の屋敷が立ち並んでいるような景観が想定されてきた。しかし、加太城跡以外の城跡伝承地には地表面で見る限り防御遺構はなく、遺物の分布も散在的である。むしろ旧大和街道に沿って盆地の西から字「鍛冶ヶ坂」、字「市場」(館跡想定地)、神福寺周辺に集落が展開するような分節的な景観をなしていた可能性が高い。



亀山隆「伊勢亀山城跡第11次発掘調査の雑感から」

 亀山市教育委員会では、小学校改築に伴い、亀山城二之丸跡の発掘調査を平成158月から平成163月に実施した。この調査担当者として調査過程で感じたさまざまな点を述べてみたい。
 まず、明治まで存続した太鼓門・二之丸北埋門跡に「破城」を思わせる破却工法が見られたことから、城の形として完成したとみる近世城郭に中世からの思考が最後まで受け継がれたのではとの思いを強くした。17世紀末〜19世紀前半にわたり使用されたと見られる大型廃棄遺構の存在は、これまで城主居住域と認識されてきた御殿内の空間構造の再検討を迫られることとなった。特に下層(戦国期)における空堀・土塁を伴う低段の曲輪(東西25m・南北50m)を3.5mの盛土を行い「二之丸」の形成していることが判明した。ただ、この状況は17世紀半ば〜18世紀後半におこなわれたものであり、『正保城絵図』の制作段階では二之丸の造成中ということとなる。今回の調査による多くの知見は近世城郭に対してさまざまな問題提起となるのではないかと確信している。
 近世亀山城の周囲から傑出した強力な求心性は天正頃には成立したと考えられるが、城に先行する鍛冶炉・区画溝などの遺構群の存在から、16世紀初頭頃にはすでに町場の形成があったことが把握されている。これを「都市的なもの」と評価することを否定はしないが、中世都市「亀山」が城とともに織豊期に完成した近世城下町「亀山」となるのか、むしろ寛永〜慶安期こそが画期ではないのかという点をもう少し整理する必要を痛感した。2006年にむけて「亀山」周辺の中世集落の動向もあわせて「城下町亀山」成立をテーマとして検討を進めたい。







第1回研究会 2004年4月17日(土)

伊藤裕偉「権力者の拠点と支配領域の関係―北畠氏の領域と拠点・多気―」

  中世後期の大名拠点(「守護町」や「戦国期城下町」)は、近世城下町を生み出す素地を持った「都市」として基本的に評価されている。しかし、大名の拠点、あるいは大名そのものも、その領域やその地域の一構成要素であり、このなかで相対化する作業が必要である。当報告では、北畠氏とその拠点多気(三重県一志郡美杉村)を素材とした。
 まず、多気の空間利用を見た。多気の空間は極めて限定的であるが、内部は北畠氏の関与に濃淡が見られ、7区域が分節的に結合していると見た。つぎに、北畠氏の交通路支配と商人などとの関係を見た。北畠氏の交通路支配は、15世紀後半代以降、自己領域を越えた線的な支配が見られる。16世紀代には、交通路支配や取引に際して独自の「公儀性」を有していた。また、16世紀後半の多気には、伊勢本街道沿線在所に対する商業的求心力が想定されるものの、これをも包摂する地域の求心力は外宮門前山田には遠く及ばないことを確認した。
 以上の検討から、北畠氏をも一要素とする地域構造の中で、多気には独自の機能が備わっているが、それは経済的状況をも含めれば、絶対的優位な位置ではない。多気の分節的空間構造は、既存の地域構造の中で選択した、あるいは選択せざるを得なかった状況を示しており、すべての大名拠点が「都市」を志向するとは言えない。地方における政治的拠点を評価する際には、既存の地域構造に対する分析が必須であると考えられる。



笠井賢治「中世城館跡と市場地名」

 中世都市研究会三重大会(仮)では従来から都市とされているもの、都市的な場である可能性が指摘されているものを整理・相対化し、三重県という地域のなかで都市像を再検討するという方向で研究が進められようとしていると筆者は理解している。
 そうした中で三重県下において中世都市とされてきた桑名や安濃津、山田。大湊などの個別の研究が深化されるべきであると同時にそれらを相対化させるためにも、都市的要素を含む場、地点の個別研究の蓄積が必要と考える。
 筆者はかつて伊勢国内における「市」地名の集成を試み、その結果最も多く認められるのは24箇所ある「市場」地名であり、その多くは国人領主、なかでも有力国人の城館跡とされる場所に近い場所の位置することがわかった。市・市場は都市を構成する要素として理解されてきたことから、三重県下における市場地名の分析を通じて、小林健太郎氏に代表されるような歴史地理的手法による研究を適用し、小島道裕氏の給人と市を一元化する方向性を援用しつつ、中世城館跡+市場地名が局地的な中心地=都市的場としての機能を有していた可能性があるのではないかという提示をした。
 討論の中では、当然のことながら、根本的に地名のみでは時間軸が特定できないという問題や、中世城館との関連性よりも荘園地名として理解するべきではないかとの指摘や城館跡との関連性よりも交通路や寺社との関連性も視野に入れではどうかといったご指摘を頂いた。指摘のとおり根本的に時間軸特定できない市場地名を検討することが中世都市を研究するための資料となりうるかという課題があり。史料に見える市場・市の検討、分布調査の実施により当該地の時期幅を絞ることや、地籍図や検地帳などを検討し、そうした積み重ねから個々の事例について市場地名の意味を検討する必要があると痛感した。

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